金子稚子の「とんぼとかめ」日記

『ACP(アドバンス・ケア・プランニング)』『人生会議』を中心に、死や死別について考えることを記しています。

渡辺容疑者とケモノの心

こちらには1年ぶり・・・(大汗)。

こちらには、重めの内容を書き記したいと思っているのですが、もうそんなに経っていたとは(大汗)。あっという間に月日は経ってしまいますね(汗)。

ちなみに、それほど頻繁な更新ではないものの、身辺雑記のようなブログは書いております。本日のテーマは、身辺雑記には書けないと思い、久しぶりにこちらに書きます。

 

痛ましい事件が起こってしまいました・・・。

お亡くなりになったお医者様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。。

ご家族様、ご友人やお仕事仲間、関係者の方々のお気持ちを考えると言葉になりません。

また今回のことで怪我を負った方、その場にいた方、そのご家族様のことも心配です。短期・長期問わず適切な医療やサポートが受けられるよう、心から願うばかりです……。

 

news.yahoo.co.jp

 

亡くなられたお医者様のことを思えば、容疑者に対して怒りを覚えるのも当然です。しかしながら、今回のことはもう二度と起こらないような特殊なことではなく、害の大小はあるにつけ今後も十分に起こりうることだと思うため、感情的なことは横に置き、どうしたらいいのかを考えていくきっかけにできればと思い、今思うことを書いてみることにしました。

このため、表現が不適切であり、嫌な思いを抱く方もいるかもしれません。もしもそう感じられたら、心よりお詫びいたします。

 

第一報から「これは・・・・」と思っていましたが、そしてまだすべて詳細が明らかにはなっていませんが、残念ながら「やはり・・・」と思わざるを得ませんでした。

・高齢の親御さんの死

・家族は中高年の男性が一人だけ

・在宅医療

経験上、個人的な感覚で誠に申し訳ないのですが、この3つが重なると何かが起こるリスクが高くなるのではないかと思ってきました。

もちろん、ここまでの事件を起こす人は稀ですし、超高齢社会の今、「高齢の親と死別する」人はますます増えていきます。

そして、在宅医療についても、私自身が夫の時も父の時も在宅医療のお世話になりましたし、素晴らしい先生や看護師さんが全国に大勢いることもよくわかっています。

ここで鍵になるのが「中高年の男性」なのです……。

 

配偶者など家族と死別した男性とお話しすることがあります。私が行うライフ・ターミナル・ネットワークのメンバーも同様に感じていることなのですが、男性と女性とでは、死に対する受け止め方が結構違う、という印象があります。

死別の受け止め方は人それぞれ、個人差ではないの?という人もいるでしょう。もちろんそうです。その上で、さらに大きく捉えてみてそう感じるのです(もちろんすべての人が該当するわけではありません!)。

男性が、特に中高年の男性が、死を「あり得ないこと」にしているかのように感じる時が割合多くあります。意識的にか、あるいは無意識なのか「考えないようにしている」という人もいます。

だから、配偶者や母親などが亡くなったら、あるいは亡くなりそうになると、まったくもってあり得ないことが起こったかのような反応になるように感じられます。ある種の恐怖に対する激烈な反応と言いましょうか……。

ストレス耐性や依存、あるいは愛着など、さまざまな要因もあるでしょう。でも、もっと本能的なものが要因のようにも感じられるのです。

それは、男性が父親を亡くした時と、母親や妻を亡くした時の違いにも表れているようにも思います。この違いは、調査しているわけではないのであくまでも“体感”なのですが(研究者の方には研究していただきたいですが……)。

 

私はこのことをこんな風に思っています。

男性は、新しい命を妊娠し出産する性(母や妻)が死ぬことに直面すると、生物としての自分の命が脅かされるような恐怖を感じるのではないか・・・。

この点、女性はちょっと違うように感じています。私のように子どもに恵まれなかった人間であっても、体のメカニズムとしては妊娠・出産する機能を有しています(した)。新しい命を生み出す機能を持っている(た)ことは、身体自体がある意味未来志向なのかもしれません。死も生(誕生)も一緒くたにできる(一緒くたになっている)感覚を生まれながらに身につけているように思えるのです。だから、死別しても生物としての自分の命が脅かされるような恐怖までは感じない……。

もちろん、夫や父が亡くなって命が脅かされる恐怖を感じる女性もいます。この手の恐怖は、私も抱えて生きています。

でもそれは、経済的・社会的な「命が脅かされる恐怖(つまり生きて=暮らしていけるのだろうかという恐怖)」であり、生物として死んでしまうかも……という本能的なものから来る恐ろしさとは違うようにも思います。

 

だから「中高年の男性が一人だけ」が、かなり心配なのです。経済的に恵まれている人であっても、本能的な死の恐怖からは逃れられないのかもしれません。これを乱暴に言ってしまうと「死(別)を受け止められるかどうか」ということになります。

 

報道によれば、渡辺宏容疑者はこんなことを言っていたのですね。

「母が死んでしまい、この先いいことはないと思った。自殺しようと思った時に、先生やクリニックの人を殺そうと考えていた」

 

無職だったようですし、年金などで経済的に依存していたのだろう?という臆測も流れていますが、果たしてそれだけなのかなと思いました。

渡辺容疑者の中に、死に対するあまりの恐怖から怒りも生まれ、それらがセットになって出口を求めて、母親の死に関わった医療関係者に向かっていったのだとしたら……。どれほどの知識や技術がある専門家であっても、その場で本能的な恐怖や怒りを制御するのは不可能だったかもしれません。言い方は大変に不謹慎ではありますが、もしもそうだとしたら“この時の”渡辺容疑者はケモノに近く、それを制御するにはこちらも武装するほかなかったかもしれません。

 

在宅医療は、いわば密室で行われることです。自分の家に医療が入ってくるイメージです。

だから、もちろん素晴らしいこともたくさんあります。患者本人にとっては、特に家が好きな人であれば落ち着く環境で、自分のペースで療養できます。

しかし一方で、密室だからこそ、患者と医療・介護の専門家双方にとって逃げ場がなくなる場合もあり得ます。

さまざまな報道からは、亡くなられた医師のクリニックが複数人のチームで渡辺容疑者に対応していたことが想像できます。難しい患者家族だったのでしょう。

でも、これからはそれでも対応しきれない人が増えていくことも想定しておいた方がいいかもしれません。

超高齢多死社会を考えれば、高齢で亡くなる方の数が増えるということはすなわち、渡辺容疑者のような人物も今よりは増えていく可能性があるからです。

 

言ってみれば、専門家にとれば、ケモノの心を制御できない渡辺容疑者のような人物もまた支援の対象となり得ます。

プロの手にかかれば、「ケモノの心を制御できない」ということを症状として受け止め、それへの対応を医療・ケアの側面から検討することもあるでしょう。

しかし、それを1つのクリニックで行おうとするには、難しいケースも出てくるのではないでしょうか。

このような人物が息子である、母一人子一人の家族への介入は相当に難しいと想像できます。

精神科など他の科や、介護だけではなく就労その他を支援する福祉関係者、弁護士、遠くから見守れる民生委員、近所の人なども含めた、もっと大きなチームを場合によっては作った方がいいケースも出てくるのではないかと思います。

真の意味での地域包括ケアシステムというわけです。

まずいかなと感じられたら、リスクは分散し、そして密室にしない、オープンにする。プライバシー保護も大切ですが、関わる支援者の命が理不尽に奪われることは絶対に避けなければなりません。

ぎりぎりのところでは、どちらを優先するのか、という厳しい意思決定が必要となります。「患者さんのために」「ご家族も苦しいだろうから」という優しさに助けられる人も大勢いますが(私もその一人でしたが)、残念ながらケモノの心にはその優しさは伝わらないのではないでしょうか。

 

「母」や「妻」、あるいは身内の死は、人の心をケモノに変えてしまうかもしれない、と、そろそろ私たちは受け止めてもいいかもしれません。

散弾銃をお世話になった医師に向ける人は稀でも、クリニックに怒鳴り込んだり、訴訟を起こしたり、SNSやメディアを使っての攻撃などは十分に考えられます。というか、そうしたことはたぶん今現在でも起こっています。

人の死は、悲しみだけを呼ぶわけではありません。ステレオタイプな「遺族像」を掲げてそれで理解したとするのではなく、そろそろその奥にあるものを知る時期に来ているのではないでしょうか。

死別に伴う本能的な恐怖のコントロールは、そのことを知っているのと知っていないのとでは、だいぶ大変さが変わるようにも思います。それは支援者だけでなく、私たち自身にとっても。

人は獣ではありません。

ケモノになる前に、あるいはなってしまった後からでも、やれることはあるはずです。

私たちも、専門家に丸投げして「無かったこと」にするのではなく、せめて「知っておく」ことから逃げてはならない……と思います。

 

 

「全国民の健康」と「自分または家族の命」、どちらが大切か?

仕事柄、私は医療関係者とのつながりが少なくありません。プライベートでも、仕事を通しても、表には出せないような本音に近い言葉も聴いてきました。

特に医師はキャラクターが濃い人たちが多い印象で(笑)、捉え方も考え方も、また発せられる言葉もとても興味深い。思わず手を合わせてしまうような宗教家のような方もいれば、なに、それwwと笑ってしまうくらいに愉快な方もいます。

でも、その根底には、驚くほど似たものが横たわっているように感じます。

人、または命を救う。

病気、または苦痛を取り除く。

大雑把に言えば、こんな風にはっきりした使命(私は「自分の使い方」と捉えています)がある(時に、それがたとえば「人を助けている私が好き」という方向に100%向いてしまっているなあとお見受けする人もいますが…汗)。そう口にする人もいますが、口にしない人であっても、当たり前のように身に付いている……そんな風に感じます。

他の仕事では、たとえば「お金を稼ぐ」「お客様を笑顔にする」などを使命とする人もいるでしょう。でも、「命を救う」「苦痛を取り除く」ほどのシンプルさ、力強さには叶いません。命に関わる究極のところで役目を果たす医師は、やはり特別な仕事なんだと思います。

そんなわけで、それは教育の賜物なのでしょうか、あるいは同じ使命を持つ仲間意識なのでしょうか。本音はともあれ、医師の間には不文律というかマナーというか、お互いの仕事には口を出さない、お互いに一定のリスペクトをもって接する、という共通のふるまいがあるように感じます。

 

でも…………。

新型コロナウイルスに際しては、それが1年も続き、また終わりが見えない(ワクチンで本当に流行が終息するのかどうか、あるいはそれはいつなのか、「見込み」はあっても「確実なこと」は言えないし、また甘い見込みしか考えない、なんてことは医療者に限ってはないように思います……)状況下にある今、そのことは医師はもちろん、医療従事者をかなり精神的に追い詰めているように思います。

 

回りくどい書き方をしてしまいました。

メディアでの報道はもちろん、国の施策もそうですが、新型コロナウイルスの感染拡大防止が今、優先されています。

同じ医師でも、感染症の専門家の声の方が大きく(響かせているのはメディアであり、私たちだと思いますが)、前述したように医師の間の不文律のようなものもあるのでしょう、それ以外の専門の医師はあまり大きな声を出しません。

しかし、医師たちの前には、必ず患者がいます。感染防止としては「正しい方法」であっても、そのことにより、結果的にあまりよくない影響を受ける患者がいるはずです。

たとえば、手術の延期など。

あるいは、人生の最終段階を迎えている患者の希望を実現できないなども。

感染防止策が優先された状態が長く続いており、しかも終わりが見えないとあっては、いくら精神的にも肉体的にもタフで我慢強い医師であっても、自分の患者を前にしては、さすがにきついものがあるのではないでしょうか。

言い方を変えてみます。

今、医師をはじめとした医療従事者は、「全国民の健康」と「自分が担当する患者(&家族)」のどちらを優先するのか、という問いに日々(しかも長らく)向き合っているのと同じ状態ではないかと思うのです。

 

感染防止のために、東京ではがん専門病院も新型コロナウイルスの入院患者を受け入れています(特別入院病棟を設置し、軽症・中等症に限られる)。

病院としては、厳しい選択だったのではないかと想像しました。

なぜなら、本来ならがん患者のためにあるはずのこの病院の医療従事者の手やベッドが、たとえ一部だったとしても、新型コロナウイルスの入院患者のために割かれることになるからです。

もちろんこの病院が悪いわけではありません。東京都からの要請を受け入れるという決断には、どれほどの重さがあったことだろうと思います。

でも一方で、私には、すでにして命の選別が行われているように受け取れます。

種類や進行具合によっては、治療の遅れが命取りになる場合もあります。命に関わるという意味では、がんも変わりありません。

新型コロナウイルスによる死は、重い病気の人の治療を後回しにしてまで避けなければならないものなのでしょうか。

がんなどそれ以外の病気による死は、新型コロナウイルスによる死よりも軽いものなのでしょうか。

感染が拡大し始めてからずっと考えていることです。

もちろん答えはない。そして、簡単に答えを出すこともできません。でも、少なくてもこの葛藤を抱え続けることが大切だということは、改めて思います。苦しいですが…。

 

というわけで、一度選んでみたらどうかと思います。どちらも大切、などという逃げ道を用意せずに。

「全国民の健康」と「自分または家族の命」、どちらが大切か?

選べないという人は、あみだくじでもサイコロでもジャンケンでもいいから、とりあえず決めてみる。そして、たとえば「自分または家族の命」となった場合、どう感じるのか。あるいはなぜそちらを選択したのか。そこまで一歩踏み込んでみたらと思います。

きつい言い方をすれば、誰かの健康(命)と自分または家族の命を両天秤にかけるわけですから、「もちろん家族の方が大切でしょ」という人でも、その誰かにもあなたと同じように家族がいることを想像できなければなりません。つまり、あなたまたは家族の命と引き換えに、健康を害したり命を失ったりする人がいる、と想像するわけです。

重い病気を抱えている人も、健康な人も、患者の家族も、介護を受けている人も、その家族も、あるいはまったく人ごとだと思っている人も。

どちらを選んでもその選択は非常に重いものだと体感できるでしょう。その重さを知るだけでも、全然違ってくるはずです。

少なくても、相手の話をまず聴こうとできるようになるのではないでしょうか。たとえ自分とは違う考えであっても、その決断が重く厳しいものであることは理解できるからです。

 私たちに必要なのは、決断する厳しさや重さに共感できることではないかと思います。

 

強い人ってどんな人?

気がつけば、前回の更新から2カ月近くも経ってしまっていました(汗)。

もともとそんなに簡単には言語化できない(というか、簡単には言語化しないようにしている……ゆっくり考えることを重視して……とも言えますが)内容をここには書いているのですが、今回はちょっと違いました。

たぶん事件についていろいろ考えて影響を受けてしまったのでしょうが、心身の調子が悪かったからです。

お陰様でだいぶ回復しましたが、年を重ねても弱いというか繊細すぎるというか、そんな自分にやれやれと思います。……が同時に、そういう部分を失ってはいけないなとも思うようになりました。特に、人の死の前後をテーマにするようになってからは……。

 

「強い」と言われる人とは、どんな人だろう?と改めて思います。

物事に動じない?どんな時でも冷静?常に前向きではつらつとしている?いつも的確で適切な行動が取れる?……なるほど、一理あるし、実際、徹頭徹尾そういう人っているよなあと思います。人によっては、そういう「強い人」になりたくて、言い方は悪いですが、そのように演じている(=見せかけている)人もいるでしょう。

実際、私もそうだったと思います、若い頃は……。でも、残念ながら長続きしませんでした。どんな時でも冷静で、動じず、常に前向きで、はつらつと日々暮らしていても、それを上回るような出来事が私の人生には次々と起こったからです。

でもそれは、なにも私に限ったことではありません。

「それなりに人生経験を積んできて、そんなに簡単には動じないつもりでいたけど、上には上がある……」

「ホント、これでもか!というくらいの経験を積んだつもりでも、そのパターンがあったか!というような事が起こるよね」

夫ともそういう話をしましたし、仕事仲間や友人ともそんな話を何度もしてきました。

 

そして、夫と死別するという出来事が私の人生に起こりました。それ以前に、次の瞬間窒息死するかもしれないという状態の夫と向き合うには、どんなときでも冷静で、動じず、常に前向きで、はつらつと……という「強い人」のスタイル?フォーム?は、私にとってはまるで意味をなさないものでした。そもそも「的確で適切な行動」って、こんな場合に存在するのでしょうか(でも実際、たとえば「献身的な介護」「やさしい寄り添い」などのような、何かの基準を押し付けられることはありますよね……)

何か大変な問題が起こり、それに対峙しなければならない時にどうするかといった、自分の中でできあがっていた対処方法、向き合い方などの成功パターンは一切通用しない……。通用する・しない以前に、そんなことは思い浮かびもしませんでした。立っているのがやっと……。というか、立っていたかどうかもわからないくらいに、最初は動転し混乱していた……。

 

そんな経験を得てからでしょうか。私はそうした成功パターン?自分なりの対処方法?スタイル?フォーム?というものを手放したように思います。

冷静で、動じないようにしなければ……とは構えない。むしろ、動転したり混乱したり、あるいは怒ったり泣いたりという自分の心の動きを深く感じるようになりました。言うなれば「味わう」という感じ。

さらに言い方を変えれば、それがどのようなものであっても、自分の心の動きと距離を置けることを知った、ということでしょうか。どれほど激しく心揺さぶられても、激しく混乱し、地の底に叩きつけられたように感じても、必ず戻る、必ず戻ってこられると、信じられるようになったんだと思います。

そして、起こる変化(それは環境も自分の心も同じですが)を恐れなくなりました。……というか、変化を恐れないと覚悟を決めることができました。

変化とは、大切な人との死別も含みます。もう少しソフトに言えば、大切な人との関係の変化(死別に限らず、向いている方向が違ってきて……別居や離婚、あるいは別れなども…)もありますよね。もちろん職場や仕事そのものなどもそうです。

そんなわけで、私にとっての「強い人」を端的に言うとするなら、変化を受け入れられる人、変わっていくもの(他人も自分も。場合によっては社会も)を許せる人、そして必要ならば自分の信念というこだわりすら捨てられる人……そんな感じに変わっていきました。

 

……と、ここまで長らく書いてきましたが、なぜこんなことを書いたのかというと、「そのパターンですか、またしても!」ということが私の身に起こったからです。

本質的には同じことが繰り返し私の前に提示されている……そんな感じを受けます。案の定、すぐに体調不良に陥りました。それほど時を空けず、体調は戻っていますが……。

おそらく私の人生における主題なのかもしれません。変化を恐れないと覚悟を決めたと書きましたが、同じようなことが起こるということは、私自身が変わっていないということなのかもしれません。

 

世の中には絶対悪というものがあるんだろうか。
本人はそれこそ一生懸命に生きているだけなんだろう。
でもその方向は、まっすぐに「自分だけ」に向かっている。
生存をかけてのことだから、それこそ死に物狂いになっていることも多い。
ややこしいのは、本人の中ではそれが「絶対善」ともいうべき正義になっている場合だ。
だから迷いがない。
自分が「自分のためだけ」にしていることに、何の疑問もない。
何度もこういうことにぶち当たるなあ・・・。
しかも、どんどんすごくなっていく気もする。
私にはどんな役目が課せられているのかと思う。
私には、何が見えていないのか・・・。
私は、何をしなければならないのか・・・。

 と、こんな長いつぶやきをSNSに記しました。

さらに、上記を加えてこのブログにも記しました。

私はどう動くのでしょうか、まだ自分の中で定まっていません。自分がどう変化していくのか、本日は記録のためのブログとなりました。

 

*本日は内省的な内容になってしまいました。この時期はどうしてもこうなりがちです。子どもの頃からのリズムでもありますが、夫の命日が近いということも理由の一つ……。でもこの心の動きも大切にしたいと思っています。