金子稚子の「とんぼとかめ」日記

『ACP(アドバンス・ケア・プランニング)』『人生会議』を中心に、死や死別について考えることを記しています。

ブログ名の「とんぼとかめ」について

「はじめに」と書いておきながら、まだ書いていないことがありました💦

ブログ名のことです。

 

「とんぼとかめ」と名付けた理由についても、書き記しておきたいと思います。

 

f:id:kanekowakako:20190822200206j:plain

とんぼとかめのフェティッシュ

この写真は、亡夫の仏壇に一緒に飾っているフェティッシュです。

 

フェティッシュについて、知っていますか?

このサイトにも書かれているように、「〇〇フェチ」の対象物でもあるのですが、それ以前に、特別な力が宿っているとされる御守りのようなものでもあります。

そして、このフェティッシュは、ネイティブアメリカンが自分たちのために作った御守りなのです。

 

私がこのフェティッシュと出会ったのは、夫が亡くなった翌年の2013年12月にアメリカを旅した時のこと。

生前から仕事でもプライベートでも仲良くさせていただいていた、アメリカ在住の知人とともに、セドナを旅しました。

その帰り道、彼女が仕事で関わったネイティブアメリカンの研究者が本業の合間に開くお店に立ち寄ったのです。

 

研究者は、失われていくネイティブアメリカンの文化を守るために、このようなフェティッシュだけでなく、マスクや置物や敷物などを正当に評価し、適正な価格でほしい人にお分けする…というようなお店を開いていました。

研究の仕事だけで十分に生活できるので(むしろ普通の人より裕福なほど)、品物を買い叩いたり、高く売りつけたり、ということもありません。

要は、フェアトレードを研究の合間に行っている人でした。

そんな商売ではないようなお店なので、常にオープンしているとは限りません。でもその日は、ありがたいことに、知人が連絡したらお店を開けて下さったのです。

 

フェティッシュが並べられたガラスケースは、大きいものが2台と、高さのないケースが1〜2台あったでしょうか。

それらのケースの中に、フェティッシュはぎっしりと並んでいました。

モチーフはさまざま。熊や鷲、蛇、蛙、ウサギ、フクロウ……もっとありました。

大きさも、色(石)も、実にさまざまです。

 

でも私は、ある2つのフェティッシュに釘付けになりました。

それが、この写真の2つです。

 

何に惹かれたのか、それはモチーフがとんぼだったから。

そして、そのとんぼをかめが背負っている姿がどうしても気になって気になって、そこから離れられなくなってしまいました。

 

とんぼは、私にとっては非常に大切な生き物です。

それは、夫が亡くなった最初のお盆(新盆)の時。東京は7月がお盆なのですが、お寺で法要をした際、とても大きなとんぼが私たちのところにやってきたのです。

そこにいた全員が、「あ、哲ちゃんだ」と口々に言いました。

そのとんぼが亡くなった夫であると、そこにいた全員がそう「わかった」のです。

 

その時から、折に触れて、実は今も、とんぼが私のところにやってきます。

一周忌の後、たくさんの人に来ていただいて催した会の翌朝には、私の部屋の窓辺に飛んできました。まるで「お疲れ様!」と言いに来たようでした。

ある時には、小さなとんぼが乱舞する様子を目にしたこともあります。

またある時は、電車で目の前に座っていた外国人観光客のTシャツ柄がとんぼだったこともありました(笑)。

 

そんな経験を経てきたので、とんぼのフェティッシュが気になることは当然だったかもしれません。

でも、とんぼだけのフェティッシュもあったにも関わらず、私はとんぼを背負うかめも気になっていました。

しかも、この2つから1つをどうしても選べない。

 

フェティッシュは御守りです。

2つ持つものではありません。

だから、どちらか1つを選ばなければならない……。

 

あまりにも長く悩んでいたので、とうとう研究者から「どうかしたのか?」と声がかかりました。

 

私は知人に通訳を頼み、説明しました。

新盆の時にやってきたので、とんぼは亡き夫そのものだと思う、ということ。

そして、どうしてもそれを背負うかめが自分に思える、と。

 

しかも、写真左のとんぼは夫だが、自分は写真右のかめのような気がして選べない、2つを分けて持つことは考えられない、とも。

 

私が夫を亡くした妻であると聞いた研究者は、その瞬間に、ぶわっと涙を流してくださいました。

そして「そのフェティッシュは、2つとも、あなたのためのものだ」と言いました。

 

少し落ち着いた彼女は、研究者らしく説明をしてくれました。

 

このフェティッシュは、ネイティブアメリカン夫婦が二人で作っている。

この「二人で1つのフェティッシュを作る」というのは、そんなにあるものではないが、でもそう珍しくはない。

でも、モチーフが2つ重なったものは、そうはない。

だから、これはまさにあなたのためのものだと思う、と言ってくれたのです。

 

帰り際、あ、と思い、このモチーフの意味を研究者に尋ねました。

モチーフには意味があることは知っていたからです。

 

「とんぼは、『メッセンジャー』。しかも良い知らせを伝えに来てくれる。

 そしてかめは、『運命を背負う者』」

 

研究者は短く、真剣な顔を私に向けてそう答えてくれました。

夫からの引き継ぎを自覚していた私は、なるほどそうか、と合点がいきました。

 

その時からこの2つのフェティッシュは、仏壇にあります。

 

夫からの引き継ぎを形にする。しかもそれは、夫との共同作業であると思っています。

だからこのブログの名前は、「とんぼとかめ」になりました。

 

 

 

はじめに:私が「死」をテーマに仕事することを決めた理由

ある年齢以上になったら、自分の周囲に死んだ人なんかいない、などという人はほとんどいないでしょう。

祖父母、両親、兄弟姉妹、親戚、配偶者、友人、知人、仕事関係者……。

人間関係の深さに差はあれど、自分と関わりのあった人が死んでしまったという出来事には、人生の中では必ずといっていいほどぶつかることになります。

 

つまり、多くの人が大なり小なり死別を経験し“なんとなくわかっている”のに、なぜそれをわざわざテーマにするんだろう?

なぜ、あんな辛いこと、苦しいことをわざわざ考えなければならないのか?

 

そんな風に思う人もいるかもしれません。

 

はい、私もそう思っていました。

というか、死のことをテーマにしようなどとは考えたこともありませんでした、夫と死別するまでは。

 

★★★

 

私の夫は、金子哲雄と言います。流通ジャーナリストと名乗っていました。

そして、今から約7年前の2012年10月に他界しました。享年41歳。

 

テレビなどにも少々出させていただいていたので、彼の死はテレビや新聞にも取り上げてもらいました。

「急死」という報道が多かったようにも記憶しています。

 

そして、死後、夫自身によってさまざまな準備がなされていたことにも注目が集まりました。

通夜や葬儀のことは、自分自身が葬儀社と打ち合わせし、通夜振る舞い(お通夜の時に出す食事のことです)の内容まで決め、会葬礼状(通夜や葬儀の時に参列者に渡す礼状です)も本人が書き、遺言書は用意しており、そして戒名も生前受戒(生きている間に戒名を授けていただくことです。ちなみに戒名は「買う」ものではありません)していて、入る墓まで決めていた……。

 

その年、2012年の新語・流行語大賞のトップテンに「終活」という言葉がランクインしましたが、見事な「終活」を実行したということで、故人ではありましたが、「終活」代表者として受賞の栄誉にも与りました。

 

しかし、当時の私は混乱していました。

「終活」のことをよく理解していなかったこともあり、夫がしたことが巷で言われる「終活」とうまくつながらなかったのです。

 

たしかに通夜・葬儀の準備をし、遺言書で相続関係も整理し、入る墓を決めたのも本人です。

でも、夫がしたことは「それだけ」ではありません。

 

いや、それよりも、もっと大きなこと、もっと大切なこと、もっと「遺される人のためになる」「遺される人に力を与える」ことをした……。

当時の私は、そこまではっきりと言葉にはできませんでしたが、そんな風に感じていました。

 

なぜなら、病気が見つかった時にはすでに末期。治療法もなく、腫瘍の大きさや位置から「次の瞬間、窒息死するかもしれない」と言われ、そこから約1年半を闘病してきていたからです。

 

その1年半の間に、「通夜・葬儀の準備」とか「遺言書」とか「お墓」のことだけをしていたわけではありません。

むしろそれらは、亡くなる前の約1カ月の間にしたことです。

 

そしてその1年半の間では、同じく「闘病だけ」をしていたわけでもありませんでした。

 

★★★

 

約1年半の闘病の間では、そういった、言葉にうまくできないこと、命の限りを突きつけられて見えてきたさまざまなこと、これまで何かを読んだり聞いたりして知っていると思っていたこととは違う現実……そんなことを私たちは共有していくことになりました。

 

そしてとうとう訪れた、本物の「もしもの時」。

夫は危篤状態に陥りましたが、医学的には説明のつかない回復をし、最後の40日間を過ごしました。

 

その40日で、夫と本当にさまざまな、いわば突っ込んだ話をしました。

そして私は「ああ、これを自分は夫の死後に行っていくんだな」と受け止めていくことになりました。

 

死を、重くも、だからと言って軽くも語らない。

死について、ドラマチックにではなく、現実を、実用性のある情報をストレートに伝える。

死に関わるさまざまな立場のどこにも偏らない(「当事者」にも偏らない)。

どのような死も、差別したり区別したりしない。

 

夫の死後は、さまざまな分野の多くの人に出会い、さまざまな話を伺いながら、そんなルールのようなものを、少しずつ自分の中に作っていく時間を過ごすことになりました。

 

夫が亡くなって約5年が経った頃。

厚生労働省から声がかかり、「人生の最終段階における医療の普及・啓発の在り方に関する検討会」のメンバーとなりました。

 

そこで検討され、あるガイドラインが約10年ぶりに改定されたのですが、私はこのとき、夫が死ぬまで行ったこと、私たちが夫を中心に行っていたことにようやく合点がいきました。

 

ACP(アドバンス・ケア・プランニング)。

この改定ガイドラインのポイントであり、今後の日本を見据えたものになります。

夫が実行したこと、夫から引き継いだことが、ようやく国レベルの実行段階に入ったんだと思いました。

 

しかし、そこにはさまざまなハードルがあり、また、課題もたくさんあります。

本ブログでは、それらについて、1つ1つ見ていきながら、私たち自身が「どうすればいいのか」を考えていけたらと思っています。