金子稚子の「とんぼとかめ」日記

『ACP(アドバンス・ケア・プランニング)』『人生会議』を中心に、死や死別について考えることを記しています。

一番怖いのは、ウイルスではなく不信感

朝から晩まで新型コロナウイルスの関連ニュースでいっぱいです。

なんだかよくわからない未知の病気であり、感染し、治療方法(薬)も特定されていない。さらに割合は少ないとはいえ、重症化すれば命の危険もある。となれば、「もしかかってしまったらどうしよう」と思う人がいるのも当然です。

 

しかし、繰り返される報道で私が一番心配なのは、医療現場です。

大きな病院はもちろんのこと、町のお医者さんにも不安な人が押し寄せることでキャパオーバーとなり、医療システムが機能不全に陥ってしまうことだけは避けなければなりません(保健所がキャパオーバーになっているのかな?と思えるような報道もありますが)。

 

大量のニュース報道により、新型コロナウイルスだけがこの世にある最凶の病気かのように感じられてしまいそうですが、でも今、このタイミングでも、がんが疑われる患者さんが町のお医者さんで診察を受けているかもしれないのです。

亡夫は、肺がんの一種で肺カルチノイドという希少がんで亡くなりましたが、病院に行くきっかけは咳でした。しかも本当にしつこい咳。一緒に暮らす私が「いつもと違う咳。しかも異様に長く続いているよね?」と感じるような咳でした。

病気の最前線に立つ町のお医者さんは、大勢の風邪の(軽症の)患者さんを診察しながらも、この小さなサインを見逃さず、検査に回したり次の治療につなぐために医療機関を紹介したりしています。

つまり、大多数の軽症者の中に、命の危険がある重病の人が紛れているかもしれない…という緊張感を常に持ちながら、日々仕事をしているのです。

私は、平時でも繊細な感覚と集中力が要求されるこの仕事が、新型コロナウイルス不安から来る患者さんの激増で、できなくなってしまうことがとても心配です。もちろん、新型コロナウイルスの重症者を見逃してしまう可能性も高くなってしまうでしょう。それこそ、無意識であったとしても、かなり高い確率で誰かの命に関わるような影響を私たち自身が与えてしまうことになると言えます。

病人に接しているのは、いくらお医者さんや看護師さんとはいえ、生身の人間なので。だから思います。今、守るのは医療機関であり、医療職の方々だと。

 

SNSのコメント欄を読んでいると、政府の対応を批判したり、検査体制の不備を批判したりというものが目に入ります。正直、ちょっと落ち着こうか…と思うような人もいます。

失礼ながら、たとえばがんなどの重病を診断された、あるいは「がんかもしれない」と言われて検査中の本人やご家族の最初の頃の状態のように見えます。病気についての正確な情報を得ようとする前に、不安で頭がいっぱいになってしまい、責めやすいところを責めている…という感じです(もちろん全員がそうなるわけではありませんが…)。

ともかくその不安を解消しようと、「白黒はっきりさせたい!」「もっと何かできるんじゃないか!」となってしまっています。

 

そのこと自体を、私のような者が上から目線で批判などできません。現に、夫の病気が発覚した時には、危うくそうなりそう(なっていたかも?)でしたので……。

でも、だから言いたいです。どうか落ち着いて。落ち着いて情報を見れば、私たちがすべきこと、できることはきちんと提示されている、と。

加えて、その期間も暫定的ではあったとしても1〜2週間と期限があります。つまり一応仮でも目標も見えている

 

この非常時に、保身がバリバリ感じられるような発表を見たり聞いたりしてしまうと、正直、本当に残念な気持ちになります。もっと言えば、直視したくないくらいに、うんざりもします。感染する未知の病気への不安もあり、怒りをぶつけたり責めたりしたい気持ちもよくわかります。

でも今、一番怖いのは、ウイルスではなく不信感です。「信じられない」という不安や恐怖が、私たちの間に広まってしまうと、本当に正確な情報、適切な情報までも私たちに届かなくなってしまう。

不安や恐怖は、私たちの目を曇らせてしまいます。自分自身がフィルターとなってしまい、自分が受け入れたい(受け入れられる)情報だけしか入ってこなくなってしまう。これは、たとえばがん治療などでトンデモ医療やニセ医学が無くならないことでもよくわかるはずです。

不安や恐怖は、それを認めるだけでも苦痛をともないます。というか、抱えているだけでも苦しい……。でも今、この非常時では、その苦痛を抱えながらもなお…という姿勢を求められていると思うのは、私だけでしょうか。

社会の「大人度」を測られているとも感じます。

 

本日だけで、新型コロナウイルスで陽性の方が二人亡くなりました。心よりお悔やみを申し上げます。お二人とも高齢者であると報道されています(東京の方は80代とのこと)。このことについては、また改めて書いてみたいと思います。

 

落ち着いて情報に触れたいですね。

headlines.yahoo.co.jp

この記事も参考になりました。

 

「無職男性ドラマ」と人生会議

またもドラマ話題で恐縮なんですが。

こんな記事が目に留まりました。

headlines.yahoo.co.jp

「医療ドラマだらけ」の裏では、「無職ドラマだらけ」が進んでいたとは!

この中のドラマの何一つチェックできていない私はだめだなあと思いつつも、記事の冒頭に取り上げられている『コタキ兄弟と四苦八苦』(テレビ東京、金曜深夜0:12〜)だけは、一度だけ、しかも最後の数分だけを観たことがありました。

「レンタルおやじ」の依頼者である“余命わずかな女性”の回を……。たまたまテレビをつけたらやっており、物語の流れもわからず最後まで観てしまっただけなのですが……。

 

さておき、なぜここまで無職の男性がテレビドラマの「攻めた枠」で主役になっているのか。とても興味深く思いました。

少し前に、以下の記事になるほど〜と思っていたので。

gendai.ismedia.jp

終活ならぬ、いわゆる婚活をテーマにした記事です。

この中で特に気になった箇所は、

自分の感情がわからないと、他人の感情もわからない。自分の感情を大切にしないと、他人の感情も大切にできない。感情を言語化できないと、他人と理解・共感しあい、深いつながりを築くことも難しい。

ここに、そうなんだよ!と共感したからです。

思わず、ここから(恋愛とか婚活の段階から)始まっていたのか!と思いました。

 

筆者は、その前にこんな分析もしています。

彼ら(金子注:男性)は(自分の得意分野などの)知識は語れるが、自分の感情は語れない。それは「感情よりも理性を優先すべき」と刷り込まれて、己の感情を深く見つめた経験が少ないからじゃないか。

 

感情を語れない……。これって、人生会議においては、正直、結構マイナスに働きます。死について、いくら知識をいっぱいに積み重ねても、それだけでは解を見出せないからです。むしろ知識だけを語っても、聞かされても、本当に共有したい・すべき本質には届かず隔靴掻痒状態になってしまうことも少なくありません。

それに、死に近くなればなるほど、自分がどれほど「知らなかった」「わからない」かが身に迫ってくるでしょう。死は、学ぶことのできない、まったくの未知の体験ですから。

私の場合は、自分自身の死ではなく、大切な人の死でしたが、それでも私たち夫婦の場合は、最初はその「わからなさ」に混乱し、苦しむことになりました。

 

そんな時、大切なのは感情です。

自分の「今の感情」をつかむこと。

知らなかったことだらけ、わからないことだらけの中で、今確実にはっきりしているのは自分の感情だけです。これを言葉にする。言葉にできなくても、自分自身が「わかってもらえた」と心底感じられる相手が目の前にいる。たったこれだけのことなのですが、死を前にしては本当に大切なことだと、経験者として強く主張したいと思います。

 

人生会議においては、特に医療現場でそれが進められる時には、医療の選択(延命治療の要・不要とか、栄養補給の方法とか)の方向に話が進みやすいのではないかと思われます。そこには知識や経験が豊富な専門家がたくさんいて、ある意味、委ねられる。

 でも、「意思の決定」は、思う以上に困難です。知識を積み重ね(もちろん知識を積み重ねることは否定しません)、理性的に判断できたとしても、死というまったく未知のものを前にしては、感情を理性で押し込めることは相当な苦痛をともなうでしょう。というか、たぶんできない。

 

必要なのは、自分の感情に気がつくこと。最初はそこからです。快か不快か、好きか嫌いか、そんな小さなことから言葉にしてみる。

人生会議を行う前に、そんなトレーニングを始めてみることをお勧めします。

 

テレビドラマの「攻めた枠」が、無職男性だらけになったのは、とってもいい傾向だと思いました。

どこへ勤めているとか、どんな職業だとか、そんなスペックが無い人たちに光を当てたい空気が生まれているのかもしれません。

言ってしまえば、そんなスペックは、死を前にした時には何の意味もありません。自分の支えになるのは、スペックの裏にあることのはず。それが周囲と共有できることが大切です(ちなみ亡夫は「流通ジャーナリストとして死ぬまで生きる」ことを大切にしました。だから最後まで病気を公表しませんでしたし、通夜葬儀、墓まで自分で手配した次第です)

素直に感情を伝え合える関係があるだけで、終活はほとんど完了したと言えると個人的には思っています。もちろんその関係は、家族だけに限りませんが……(相続や延命等、死後にもめそうな内容については、それこそ知識とハウツーでカバーできます。トラブルが起こっても、その関係があると無いとでは、その後が違うと言えるでしょう)

 

今回目に留まった記事の筆者も「わかこ」さんでした(笑)。意識していたわけではないですが、わかこ付いていますね(笑)。

今クールの医療ドラマから思うこと

いくらドラマ好き、しかも「ドクターX」を毎回チェックするくらい医療ドラマも結構観る方だと思いますが、今クールは医療ドラマが多すぎて、始まる前から食傷ぎみ。観る作品を絞ってしまいました。

 

一応、終活ジャーナリストを名乗っていますので、その中の一つは「病室で念仏を唱えないでください」をチョイス。主人公の救急救命医であり僧侶の松本照円(伊藤英明さん)のよき理解者?である、余貴美子さん演じる病院理事長が「わかこ」と同じ名前であることが決め手だったりもしますが(苦笑)。

www.tbs.co.jp

さて、このドラマを好ましく思うのは、主人公が医師としても僧侶としても発展途上で、まだまだ&まだまだ!なところです。上から目線で言っちゃいますが、これはとても大事なポイントだと思っています。

 

仕事柄、立場のあるお坊さんにお会いすることもありますし、何よりご縁をいただいているお坊さんからいろいろなお話を伺いますが、ちゃんとしたお坊さん、言うなれば宗教家からは、「立派な話をしよう」もっと言えば「正しい生き方をしなければならない!」などという肩に力が入った感じをほとんど受けません。あくまで個人的な心証ですが。

つまり、きちんとした宗教家からは、自分を認めてもらいたい、という承認欲求を感じないのです。

 

私の持論に、自分の奥様(性差別的で限定的な言い方ですみませんが)から「院長」とか「住職」と呼ばれる仕事は、それは職業ではない、というものがあります。

自らの妻からそう呼ばれるということは、プライベートも「医師」であり「僧侶」だからです。

それは、職業ではなく、生き方だと私は理解しています。

 

だから、ある意味「到達点」がないのかもしれません。これでOK!という終わりがない。

仏教でいえば、現世で覚りをひらけないのと同じです(言ってはなんですが、“覚りをひらいている風”に見せている人は、私にはとても演技的でヤバい人物に見えてしまいます……)

 

真の宗教家は、自分の「いきる」(宗教的に言えば「修行」ということでしょうか)に集中しています。

仏教は「教え」の理解ではなく、「実践」であるということを体現している存在です。だから、その言葉には重みがあり、人の心を打つ力がある。

 

そんなわけで、ドラマの中で主人公の松本照円が院内チャプレンとして、一所懸命に教えを説く姿が好ましく映るのです。法話が全然板についていないから(笑)。

でも、その姿からは、自分の未熟さを隠そうという意思が感じられません。自分を認めろという、立場からの押しつけもありません。

というか、そんな他人の目は、頭の中のどこにもないのでしょう。自分の「いきる」「修行」に集中しているから。

末期がん患者からも、救急で運ばれてくる子どもからも、亡くなった人からも、落ち込んだり泣いたり、時には大失敗をしながらも、真摯に学ぶ姿がとても爽やかです。

そして、時に宮崎美子さん演じるお掃除の「おばちゃん」と、下に見たりえらぶったりすることなくいろいろ話したりもする姿もとてもいいなあと思って観ています(おばちゃんの名前が「弁天」という名字だと、この前の回で発見しました!細かく作り込んでいますね〜)

 

私たちは、目の前にいる人を、そのまままっすぐに見ているのでしょうか。というか、本当に「その人自身」が見えているのでしょうか。

「僧侶」や「医師」というフィルターをかけていませんか?

僧侶だから、医師だから立派である、と決めつけるのは、私は違うと思います。たしかに、大変な役目を負っている方々ではありますが。

でも、命の終わりが見えてきた、その苦しさ、厳しさを彼らに委ねることはできません。“本物”は、自らも自分の苦しさ、厳しさから逃げず、それを引き受けて「いきる」存在だからです。そして、他人がそれを引き受けることができないということもよく知っているからです。

 

ACP(アドバンス・ケア・プランニング、人生会議)を進めようとする時、もしもその時が、自分の命の終わりが見えてきた時であったなら、果たしてあなたはどんな人と話したいと思うのでしょうか。

 

当てが外れた、こんな人とは思わなかった、わかってもらえず失望した、いろいろあると思います。でも、それがわかった、ということもまた1つの成果です。望むと望まないとに関わらず、自分が生きていたところから一歩深く踏み込んだと言ってもいいかもしれません。レイヤーが変わったと言い換えることもできるかも。(スピリチュアル的な意味ではなく)見える世界が変わるきっかけになるかもしれませんね。

でもその時、できれば「こういう人は、自分には合わない」ということまで言葉にできるといいのですが。

人生会議は、自分自身も含め、家族、友人知人、医療や介護の専門家たちなど、自分に関わる人たち自身を知ることができる機会でもあります。

 

ドラマは、新しい章に入ったようです。医師として僧侶として、主人公が激しく揺さぶられることが想像されます。どれほどの死に立ち会っていたとしても……ですね。でも、成長が楽しみです。あ、でもこれって、病院理事長と同じ感覚かも(大汗)。