自分のペースが戻るまで
思いがけず新しいリズムが生活の中に入ってきて、心身ともにまだ慣れず落ち着きません。
noteで哲学者と対話を試みているのですが、原稿を書き送ったところ、急いで書きました?というさすがな指摘……。じっくりと深く考え、言葉と向き合う時間をきちんと確保できないうちは、いくら胸を借りているという立場であっても、それは失礼な態度だろうと反省しました。
一方で、じっくりと深く考え、それをアウトプットする時間が取れないと、私はこれほどまでにイラついてしまうのか、という新鮮な発見もありました。
20代の仕事のパートナーから以前、「たとえが悪いのですが、金子さんは(言いたいことが体に溜まってしまって)便秘状態にあると思います」と言われたこともあります。出すものをきちんと出せないと(すごい言い方ですが…汗)、頭の中が形になる前の言葉であふれかえってしまい、結構苦しいことになります。
しかし、それを形にするまでじっくり考える時間が、新しいリズムに慣れない今はまだちょっと取れずにいる……。
そこで、いくらブログとはいえ公開しているものに、あまり練られていない、生々しいことを書くつもりはありませんでしたが、新しいリズムに心身が慣れ、自分のいつものペースが戻ってくるまで、ここで少しリハビリさせていただきたいと思います。
……と書いて思い出したのは、夫が亡くなった後のこと。
私は編集・執筆や広告制作の仕事を通して、言葉を扱ってきていたのですが、夫の病気がわかってからは、そうやって自分の道具のように自在にできていた「自分の言葉」をうまく扱えなくなってしまいました。
「自分の言葉」がすべて失われてしまった……。
当時、私はずっとそう感じていました。最初は書けなくなり、それが進むと、うまくしゃべることもできなくなっていきました。
そうして夫が亡くなった後、私は夫から引き継ぎされたことを形にしなければ!と焦りましたが、それでも「自分の言葉」は失われたまま。うまく話せないし(話す前に力尽きてしまう……という方が正確かもしれません)、書くことさえもままならない。
そんな時、リハビリに使わせていただいたのが、Facebookでした。たしか「友達だけに公開しているこのFacebookで、リハビリさせてください」と書いた記憶もあります。
また同じことをするのか、とまるで成長しない自分にげんなりしますが、私の場合、新しい生活リズムが始まると、心身のバランスが乱れ、それを整えるために、ちょっとだけ人の目があるところで何かを書く……というのが1つの回復のためのルーティンなのかもしれません(……と、言い訳しますが 笑)。
書きたいことは頭の中にあふれかえっているのです。
新型コロナウイルスが少し落ち着いた?というか、変わってしまった生活に私たちが慣れてきた?今こそ、「人生会議」をしてほしいのです。
しかし、それには死のことをはっきり書かなければなりません。
また、そのような文脈で「人生会議」のことを書くことについても、自分の気持ちの持って行き先を見つけておかなければなりません(「そのような文脈で」と書かれても、どんな?と思う方も多いと思います。わかる人にしかわからない書き方になってしまいますが、「事前指示を目的とした状況で」人生会議を始めてほしいという意味です)。
そのことを書くには、私はまだ準備ができていない……と思います。
いろいろなことを、ここにメモのように書いていくことで、ペースを戻し、まずは書ける心身に戻していくことから始めたいと思います。
ということで、本日はこの辺りで。。
遺族の物語を通して感じてほしいこと
自粛生活も長くなってくると、そのリズムに体が慣れていきますね。
先日は、精神疾患を患う人の支援をされている方のお話を伺う機会がありました。精神疾患を抱える方も、というより、患っているからこそ私たち以上に、生活リズムがこれまでと異なることには大変なストレスがあります。支援者側も、とても用心深く丁寧に見守っているのだなあとお話から感じられましたが、患者さんも本人のペースで、この生活に順応していっている様子がうかがえて、なんというか……人間が本来持つベーシックな力、その力強さに改めて感じ入った次第です。
私たちは、もう少しだけ、自分たちが生まれながらに持っている力を信じてもいいのかもしれません。
とはいえ、経済への大きな影響は、個人の力だけではどうにもなりません。
パンフレットに寄稿させていただいた映画が、公開後まもなくからの新型コロナウイルスの影響により上映できなくなり、とても気になっていました。
この映画です。
「巡礼」というタイトルから連想されると思いますが、遺族の物語です。
新型コロナウイルスでほぼパニックのようになってしまっている社会の空気の中では、死を連想させる話は伝わりにくいし、むしろ忌避感を強めるだけだろうと思って、お知らせも控えていました。
寄稿した記事の一部をご紹介します(配給会社さんの許可を得ています)。
「巡礼の約束」は、大切な人と死に別れた遺族の物語でもある。しかし、遺族の物語と聞いて、同じ遺族同士、悲しみを共有し、巡礼の旅を続けていく中で癒やされ、家族の絆は再び結び直されるだろう。そんな、こちらの浅はかな予想は簡単に裏切られる。日本人が好みそうな、そんな甘ったるい感動物語とは一線を画した作品なのだ。
なぜなら、悲しみは共有できないから。
幸運にも、そして何より医療従事者や介護職といった最前線で働く人の献身的な仕事によって、日本では新型コロナウイルスで亡くなる人をこれ以上増やさないようにとなんとか抑えています。
しかし、今この瞬間にも、新型コロナウイルスだけではなく、さまざまな病気で、あるいはケガで、生死の境にいる人がいます。そのご家族もいるでしょう。
そして、亡くなる人もいる……。
がんだけに限っても、1日に1,000人以上の方が亡くなっていることをご存じですか(2018年にがんで死亡した人は373,584人)。
誰もがいつかは必ず迎える未来(=死または死別)なのですが、多くの人が無かったことのようにして暮らしています。そうでなければ、精神を保って生きられない、という人もいるでしょう(怖いから?)。
死は、「自分さえしっかりしていれば、こうやって“正しく”生きていれば、人生をうまく生きていける。失敗なく進んでいける」ということに、いとも簡単にNOを突きつけます。
“正しく生きていれば大丈夫”なんて、そんなことは幻想だよ、と。
どんな生き方をしようが、自覚的に生きていようが、死だけは自分では選べないんだよ、と。
これまで積み重ねてきたこと(それは人間関係だったり仕事の実績だったり財産だったり、あるいは「徳」ということもあるかもしれません)が、あまりにもあっさりゼロリセットされてしまう……それが「死」だと、思っている人もいるかもしれません(「自分の死」を思うと、それは真実だなと思いますが……)。
しかし、死は、そんなに単純なことなのかな、と個人的には思っています。「無かったことにしないと生きていけない」くらいに、怖いものなのだろうか、と。
そう思えるようになったのは、大切な人との死別の経験を得てからです。
死は、普通に私たちの近くにあり、そしてとても自然で、(語弊のある言い方かもしれませんが、実感としてあるのでそのまま書きますが)「豊かなもの」です。
もちろん、苦しさや厳しさもある。でも、それだけではない。だから「豊か」だと思うのです。
「巡礼の約束」は、チベットを舞台にした映画です。タイトル通り、聖地への巡礼、しかも五体投地というもっとも丁寧な礼拝方法で向かうロードムービーでもあります。
長くなってしまうので語句の説明は省きますが、ACP(=人生会議)の意味と価値が深く伝わってくる映画でもあり、また地域との関わり、信仰の意味、チベット版在宅医療?も描かれます。
ぜひ観ていただきたいのですが、新型コロナウイルスにより、映画館での上映は来年となっています(岩波ホールは、2021年3月13日(土)~4月2日(金)の
そこでと言ってはなんですが、「仮設の映画館」という取り組みをご紹介します。
詳細は、↑のサイトをご覧いただきたいですが、この取り組みは「映画とミニシアター映画館と独立系配給会社への観客の応援の力をお借りしたい」という、映画作品を提供する側からの真摯なお願いでもあります。
もちろん映画だけではありませんが、消えてしまったら二度と戻らないもの、消してはいけないものが世の中にはあると思います。関心のある方には、ぜひご検討いただけたら嬉しいです。
なお、パンフレットも購入可能です。こちらをご確認ください。
以下にも転載させていただきます。
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《『巡礼の約束』『タレンタイム~優しい歌』パンフレット販売のお知らせ》
仮設映画館で公開中の『巡礼の約束』『タレンタイム~優しい歌』のパンフレットを通販で取り扱っております。
購入ご希望の方は弊社メールアドレス( info@moviola.jp )まで、
【商品名】【必要部数】【送付先住所(郵便番号/住所/氏名)】をご連絡ください。
- 『巡礼の約束』パンフレット:800円(+送料)
- 『タレンタイム~優しい歌』パンフレット:800円(+送料)
- ヤスミン・アフマド特集&『細い目』パンフレット:800円(+送料)
※『タレンタイム』サントラは在庫切れで現在は取り扱っておりません。
※支払方法は「銀行振込」のみとなります。詳細はメールにてご連絡致します。また、新型コロナウィルスの影響により、商品の発送に時間がかかる場合がございます。
※その他の弊社作品のパンフレットを通販希望の方も info@moviola.jp にお問い合わせください。
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「自粛疲れ」「気の緩み」などと言われていますが、未知のウイルスに対峙するにしても、少しずつ多くの人の心に余裕が出てきているのかな、と思います。
そろそろ死について、人生会議について、書いていきたいと思っています(本ブログでもちょっと書いていますが…汗)。
母の日によせて
今日は母の日です。
母の日の由来については、ネットで調べてみてもいいでしょう。諸説あるようですが、有名なところでは、アメリカのある一人の女性が、亡き母への敬意と追悼の意を込めて教会でカーネーションを配ったことから始まった、というものがあります。日本にもすっかり定着している行事ですね。
……なのですが、私は少し違った角度から、母の日について思っていることを記しておこうと思います。
「お母さん、ありがとう」があふれるこの日の前後、つらい気持ちを抱える人たちのことがいつも気になります。
いわゆる毒母と言われる、難しい人が母親である人。
毒母まではいかなくても、母親との関係に苦しさを感じる人。
義母との関係に苦しむ人。
母親を亡くした人。
そして……、子どもを亡くした母親。
そういう方々に、子どものいない私ですが、いつも伝えたくなることがあります。
子どもは、その命が授けられた瞬間に、すでに役目を終えている、と。
大きな子ども、小さな子ども、この世に生まれてこなかった子ども……そんな子どもを亡くした母親たちからさまざまなお話を伺いました。
その大きな悲しみは、「悲しみ」という言葉だけではとても表せないものです。というか、子どものいない私には、想像すらできません。
しかし同時に、その悲しみの裏には、大きな喜びがあっただろうなということも、感じられました。命を我が身に宿した感覚、周囲の人の嬉しそうな様子、命が生きていると実感できる喜び、誕生の瞬間、子どもの重み、何の疑いもなく全身を預けてくる子どもからの大きな信頼、邪心ゼロの笑顔、精一杯の泣き声、毎日毎日積み重ねられていく成長…………。
そのすべてを、私は経験したことがありません。だから言えてしまいます。
筆舌に尽くしがたい悲しみや苦しみは、筆舌に尽くしがたい喜びや幸せとセットなのではないか、と。
それらはすべて、新しい命との出会いがなければ、決して得ることなどできないものだからです。
そう思うようになったのは、これもまた言葉には言い表せないほどの苦しさの末に、不妊治療の中止を決断した人の思いを聞いてからです。
喜びだけでなく、苦しいこともつらいことも、すべてを連れてきてくれる子どもを望んでも望んでも得ることができない、と受け入れることもまた、本当に苦しいことです。
だから、思うのです。子どもは、その命が授けられた瞬間に、すでに役目を終えている、と。
つまり、子どもは子どもとしての役目を終えた状態でこの世に生まれてきます。
親は、子どもに関連したあらゆる感情、あらゆる経験、あらゆる学びを、彼らから得るだけです。
だから、「生んでくれてありがとう」「育ててくれてありがとう」などと、言いたくなければ言わなくていい。そう私は思います。むしろ母親の方が、「あなたが来てくれて、私の人生はここまで豊かになった」と、感謝を伝える側なのかもしれません。
感謝は、(母親であってもなくても関係なく)他人からしてもらった行為、寄せてもらった思いに対してすることです。親だからしなければならない、ということではありません。
こうして考えてみると、介護についてもまた同じことが言えるのかもしれませんね。
「自分も育ててもらったから……」と親の介護を考えていると、どこかで行き詰まってしまうのかも。自分を育ててもらった代わりに、お礼として親の介護があるのでしょうか。
親子の関係に、ギブ・アンド・テイクは馴染まないと思います。
もうタイトルも忘れてしまいましたが、昔読んだ本の中に、こんな言葉がありました。今でも覚えています。
親は、輝く弓になれ。
引き絞り放たれた矢は、二度と戻ってきません。
そして、弓が強ければ強いほど、うまく引ければ引けるほど、矢は高く遠く飛んでいきます。加えて、矢が飛ぶべき方向は、弓ではなく何かによって、すでに定められているのかもしれません。
私たちは、矢であり、(私は叶いませんでしたが)弓でもあります。
決して同じ形ではありませんし、役割も違うのだと思います。