金子稚子の「とんぼとかめ」日記

『ACP(アドバンス・ケア・プランニング)』『人生会議』を中心に、死や死別について考えることを記しています。

怒りや悲しみへの共感は人の心を大きく動かし、強い力になり得る。でも……

先週は、ライフ・ターミナル・ネットワークの仲間から情報を得て、ある報道番組を拝見して思ったことを書こうと思っていました。

しかし、放送からまだ1週間も経っていないのに、動画どころかネット記事さえ検索してもヒットしない。あるにはあるが肝心の部分を避けたような内容の記事に、違和感を覚えて調べたところ……、なるほどそうでしたか、と思いました。

ameblo.jp

さらに↑の3日後には、TBSと協議して改めて近日中にご報告します、というブログがアップされていますので、私自身が書こうとしていたことはまた後日にするとして、↑のブログに書かれたご遺族の松永さんのお気持ち、私には少しだけわかるような気がします。

 

最後になりますが、対談した方を責めないで欲しいです。

あの様に、私と直接話をしてくださったことそのものに感謝しています。人それぞれ考え方に違いがあることは当然だと私は考えています。

放送されていない部分を含め、多くのことを学ばさせていただきました。

 

私はこの放送動画を拝見し、おそらく起こっただろうことが想像できました。それほどまでに、↑の文中に出てくる“対談した方”の言葉は、ご遺族にはかなり厳しいものだったので。正直、私のような者でさえ、さすがにそれはない、と思いました。でも同時に、これがリアルな高齢者だろうとも感じましたが(言うまでもないことですが、高齢の方の全員が全員、こうだというわけではありません。それは松永さんもお書きになっている通り、人それぞれの考え方だと思います。また、“対談した方”のお考えにもそういう面もあるだろうなと同意できたことも付け加えさせていただきます)

そして、それほどまでの言葉を、努めて冷静に受け止めている松永さんの姿を拝見し、松永さんがされようとしていることも深く伝わってきました。

(前略)私が今回対談をしようと思ったのは、免許返納の裏で日本全国でこの様な家庭があるという事実を私自身が勉強させて頂きたかったからです。

 

しかし、放送された内容は……、私の主観でいえば「あまりにも身勝手な高齢者」像が前面に出たものでした。

そして、死の前後(特に前)で起こるさまざまな問題に対して、一つの解決方法として私自身が広めていきたい「対話」について、僭越ながら松永さんにその手法をお教えできたら……とさえ思ってしまいました。

それくらい、松永さんが話を聞きながら苦しい思いをされていることも伝わってきたからです。もし彼がこのような対談(放送では「対話」とおっしゃっていたと記憶していますが)をこれからもしていこうというなら、ご自身の心身を守るためにも、身につけておいた方がいいと思ったからです。

 

おそらくあの放送を観た視聴者は、松永さんの苦しさを受け止め、そして“対談した方”に怒りを覚えたことでしょう。

ひょっとしたら、時々SNSに散見されるように、高齢者は早くこの世からいなくなればいいくらいの暴言も飛び交ったかもしれません。

でもそれは、↑の松永さんのブログを読めばわかる通り、彼の本意ではないし、またこの問題を解決できるものでもありません。

 

以前、「人生会議」のポスター騒動が起こった時に書いたことがありますが、遺族の声は非常に強い、ということを改めて思います。

もちろん、遺族の声でなければ伝わらないことも本当に多い。

でもそれは、遺族に貼り付けられた区別(時に「差別」と言ってもいいかもしれません)と表裏一体であることも確かです。

自分が伝えたいことがまっすぐに伝わらない。

松永さんはそう思ったかもしれません。少なくても私はある段階までそう思ってきました。

なぜならそれは、メディアの側にも受け取る側にも、「遺族」が強くすり込まれているからです。伝えたい内容よりも先に「遺族である」という強さだけが伝わってしまう……。言うなれば遺族レッテルです。そして、それを剥がすのは容易ではありません。

怒りや悲しみへの共感は、それほど人の心を大きく動かし、強い力になり得ます。でも同時に、その力は良くも悪くも自分にも向かうことが少なくない……。

 

4カ月ほど前の記事ですが、今朝、たまたま共有を見かけて拝読しました。

その中の一文をご紹介します。

(前略)当事者が出てくることになれば、「その人たちの物語」としての完結性を求めることになってしまう。登場した人たちがどのように傷ついてどのような人生を送ったのか、という人間の物語として完結させなければならなくなってしまう。

 もちろん、そういうドキュメンタリーもあっていい。だが、この被災地の性暴力という問題は「その人たちの物語」、つまり性暴力を経験した被害者だけの物語ではなく、被災した後で子どもたちや女性が傷つかないような防災体制について考えるドキュメンタリーなのだ。つまりは「私たちの物語」でもあるのだ、という視点を意識したのだろうと思う。(*強調はこちらでしています)

 

「災害時の性暴力に光を当てたドキュメンタリー」の話ですが、非常に共感しましたし、納得しました。同時に「私たちの物語」にする困難さも思いましたが……。

でも、「被害者」「遺族」の話を超えたところをめざすのなら、この手法に学ぶべきものも多いと思います。

 

ご家族を亡くされてまだ1年。どれほどの思いだろうと言葉もありません。少しでも心身が休まる時間があってほしいと願うばかりですが、それも難しいだろうことも想像に難くありません。でもどうか、疲れたら休んでいただけたらと思います。この戦いは難しく、長くかかるかもしれません……。

奥様とお嬢様のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お互いの身体感覚で相手との間合いを把握する」

5月の連休中に(といっても、事実上3月からほぼストップ状態でしたが……)、なかなか寝覚めの悪い夢を見ました。

見渡す限りすべてカラスの死骸!という状況の中、一歩一歩カラスの死骸を踏み潰しながら延々と歩き続ける夢です……。カラスのさまざまな死骸の様子、踏み込んだ足の感触もあまりにリアルで、半ば夢とわかっているのに「ひえ〜〜〜〜!なんでこんなところを歩かなければならないんだ!」と、叫びながら歩きました。で、その日は夕方までぐったりしてしまったほど(ちなみに、カラスの死骸の夢は吉夢と言われているようですが……。とてもそうとは思えない……汗)

なのですが、私の窓辺にはカラスがたびたびやってきます。ウォーキングの最中にもよく会いますし、そのユニークな様子に笑わされもします。しかし、時々ちょっと怖い。ちなみに、真正面から飛んできたカラスに、頭をワシャッ!とやられたこともあります……(やられる瞬間、カラスがニヤッと笑ったように見えたのは私の気のせいかもしれませんが)

 

そんなわけで、カラスは私にとってはなかなか無視できない存在……です。昨日、書店で↓の本を見かけた時には思わず手に取りました。

www.shinchosha.co.jp

 

カラスなど、さまざまな主に鳥類の話が満載な本だけれど(もちろんそれも楽しいです!)、私が買うと決めたのは、冒頭に書かれていた一文に深く頷いたからです。

どれほど高潔なことを説こうが、人間はヒトという動物種であり、生物としての原理に則って生命活動を行っているのと同じである。 

いや、ホント、おっしゃる通りだと思います。

死にまつわるさまざまなことに意識を向けていると、つい忘れてしまいそうになるこの感覚。別に高潔なことを言ったり書いたりしようなんて思ってはいないけれど、気を抜くと、必要以上に生き死にを特別なこととして捉えてしまうことがあります。生きて、そして死んでいくのは「生物としての原理に則っての生命活動」のはずなのに。

以前、大学の市民公開講座を企画していた時、医師でもある大学の先生から、生物学的な死という視点を教えていただきました。そして、人間は(というか生物は)、捉え方を変えるととてもシンプルな存在なんだと知ることができました。

つまり、生まれてきて、遺伝子情報を次世代へ伝え、そして死ぬ、ということ。生物が行うことはこれだけだと知って、霧が晴れたように感じたことを今でもよく覚えています。

で、その時は、子どもがいない私は、生物学的には「生物としての唯一の目的を果たすことができなかった個体」ということなんだなあと改めて思いました。こんな個体が生きてしまっているのも、きっと何か理由があるのだろうとも思いましたが(←この考え方は生物学的ではないですね…汗)。

 

いくら人間が恋い焦がれようと、向こうは別にこっちのことを好きじゃないのだ。それどころか、見たら逃げようとする。この後、カラスを研究するにあたっても、必要なのは「わかり合う」ではなく、まずはお互いの身体感覚で相手との間合いを把握する、つまり「渡り合う」ことであった。

*強調&下線はこちらで入れています

 

「まずはお互いの身体感覚で相手との間合いを把握する」。その通りだと思いました。人間は野生動物ではなく社会的な存在だという考え方があることもわかっています。

でも、生き死にがかかるそのものズバリな生命活動に直面した時には、正直、社会的な存在……みたいな考え方が物事をややこしくするようにも思えるのです。たとえば「○○すべきだ」という考え方など。

「家族は仕事や学校など放っておいて一生懸命看病するべきだ」「仲違いしていた家族は、死ぬ前には関係を修復すべきだ」「最後の最後まで治療し続けるべきだ」などなど。あるいは「先生の言うことは絶対だ」または「先生の話など聞いていてはだめだ」なども。

 

自分は死ぬのかもしれない。

私の家族の命はもう終わってしまうのかな。

……そんな時こそ、「まずはお互いの身体感覚で相手との間合いを把握する」ことから始めた方がいいんだろうと思います。たとえ親であろうが子であろうが、配偶者であろうが、それぞれ「個体」だから。

つまり、死ぬという自然な生命活動の1つに直面する個体は、自分(その人)自身だと改めて確認するところから始めた方がいい。

ややこしい物事に苦しむ方々が多い、というか、何より死に直面するその人が、周囲が起こすややこしいことで苦しむことが少なくないと感じるので、そう思います(その「ややこしさに苦しむこと」を、それが人生だとか、人間らしいという考え方もありますが、申し訳ないですが、そういう考え方は上から目線だと私には感じられる次第です。当事者が「これが人生だ」と言うのならともかくも……)

 

でも、そうは言っても……ですよね。もちろん、その苦しさは家族として経験しているのでわかります。でも、改めて問いたいです。真に死に直面する気持ちを分かり合うことなど、できるのだろうか、と。

私は、人生会議(=ACP;アドバンス・ケア・プランニング)を進めましょうという立場です。その大切さもよくわかっているつもりです。でもその前に、私たちは「わかり合えない(かもしれない)」ということを知っておいた方がいいとも思うのです。話し合うのは、それを前提にした上での方がいい。

 

「お互いの身体感覚で相手との間合いを把握する」。なんと腑に落ちる言葉なんでしょう!生き死にがかかる場面では、生物としての自分が本来持つ力が立ち上げるのかもしれません。頭でっかちな「社会的な存在」ばかりで生きていては、この局面では苦しくなるかも。当然これは、オンラインではできないことでもありますね……。

 

 

化けの皮がはがれていく……

よいタイミングで書くことができなかったので、もうこの話題は流れてしまったと思っていますが……。

幻冬舎の編集者が女性ライターに……という問題。週刊文春が記事にし、それがネットで拡散し……というところまでは追っていましたが、その後もまた、やれやれという報道があり、掲載写真に思わずのけぞり……となっていました。

現在もTwitterで怒っているプロの物書きの方々もいて、その怒りももっともだと思っています。

私のTwitterのTLには、主に男性、しかもそれなりの年齢でキャリアのあるプロの物書きの方々の怒りがたびたび流れてきていました。しっかり追えていなかったので、怒りの根源をつかむことはできていませんが、でも、(ほぼ同世代なので)ちょっとわかるかな……。

 

私自身は、若い頃から出版業界で働かせてもらっていましたが、サッカーという特殊?な分野だったせいかい、この女性ライターのような思いは一度もしたことがありません。

Jリーグが始まる前からのことですので、サッカーよりは野球ファンが多く、したがってメディアの扱いもとても小さかった……。だからか、サッカー報道に関わるマスコミはサッカー大好き!というようなほぼ男性ばかり。当時、私が知る限りでも、英字新聞を含めても3〜4人くらいしか女性記者はおらず、カメラマンも私の後輩だけでした(私のような編集者もほぼ数人)。

なので、チームのクラブハウスに取材に行くと、選手から「ハイヒールで芝生に入ってくんなよっ!」と大声で怒鳴られることはあっても(そんなことをするはずもなく、スニーカーを履いた足を上げて「大丈夫ですよっ!」と言い返してましたが)、女性扱い?されることはほぼなかったと記憶しています。

また、そんな男だらけの仕事場でも、セクハラまがいのことをされたことは皆無。ともかくも締め切りに追われ、男も女もなく、仕事に熱中していました。

 

……と、そんなことが「異常なこと」だと知ったのは、サッカーの仕事から一時離れた頃のことだったでしょうか。30歳は過ぎていたかな。たまたま仕事で一緒になった、私より若い女性ライターから、「友達のライターが出版社の社員編集者にレイプされた」という話を聞いたのです。

はい?と、今から思えば、まるでわかっていない反応だったと思います。でも正直、「そんなことが起こるの?仕事なのに?」と思っていました。笑えるほどに、私は何も知らない人間でした。

でも、話を聞いているうちに、私の環境の方が変わっているのだとわかりました。話してくれた若手女性ライターは、涙ながらに「こんなに親身になって話を聞いてもらったのは初めてだ」と言っていました。そう、「そんなことはよくあること」と、それくらい受け流すように言われるのです。

恥ずかしながら、レイプはともあれ、オジサマの軽口(今ならセクハラ認定できますが)くらいは受け流さないと、あなたは職場でやっていけなくなる、と若い女性にアドバイスしたこともあります。私が今、若い方々が今もなお女性蔑視に苦しめられている様を見て、自分がどれほどだめな対応をしてきたかと反省しているのも、その経験があるからです(まあ、ついでにちょっと書かせてもらうと、年齢&性差別のダブルである“オバサン差別”もありますがね……。これは男女&年齢関係なく、なさる方はなさいますけど。特に若い女性に対しては、あなたの未来なんですよ〜と思って見守っていますが…。あ、もちろん“オジサン差別”もありますね)

 

立場の違い、特に上下関係を盾にする人、いますよね。

ハラスメントは言語道断。軽め?でも、マウンティングという行為もあります。

でも、仕事上、意見が対立していてもどうしても事を前に進めなければならない時、「上の立場」を利用することもあります。私も「上の立場」を利用したり、あるいは自分のそのポジションを利用したりしたこともあるし、当然、利用されたこともあります。

また、ハラスメントも、最初はよくわからないことがあります。特に受ける側は下の立場ですから、上の立場の人間が何を考えているのかなんて、そんなにすぐにはキャッチできません。

でも、頑張って、落ち着いて、どうか見極めてほしいと思います。

キーワードは、「その人の目的は、どこにあるのか?」

立場の強さを使って異性とどうかなりたいという人は最低すぎますが、注意した方がいい人はそれだけではありません。

立場を誇示したいだけの人、

自分がこの場を仕切っている感に酔いたいだけの人、

カリスマとか教祖になりたい人、

人をお世話(ケア)している体を装って、自分の生きがいにしている人、

自分の苦しさや辛さをアピールして、従えたい人……。

要は、他人を従えたい・依存させたい人、目の前の課題とか問題を解決しようというより、自分の「こうしたい」を優先している人に注意した方がいいのです。

 

顔面にわかりやすく表れている方だけではありません。満面の笑みを浮かべた、優しげな見た目の人でもこういう方はいますし、強烈なリーダーシップを発揮して頼りがいのあるように見える人にもこういう方はいます。

加えて、ややこしいことに、その人自身が心から「問題解決をしている!」「人のために働いている!」と思い込んでいることも少なくありません(本人がそう思って自分に酔っているだけなのですが……)。

つまるところ、簡単には、判断できないのです……。

そして、見極める自分の目が曇ってしまう場合も少なくありません……。

 

抱える問題を解決しなければならない、この苦しさからなんとか逃れたい。そう思うのは人間なら自然だし責められることではないのですが、それを丸々誰かに転嫁しようとした時、目が曇ってしまいます。

でも、冷静に「この人の目的は、どこにあるのか?」と見つめていれば、自ずと化けの皮がはがれてくる(=「ああ、そんな人だったんだ!」と気がつく)こともあります。

 

重い荷物を誰かに少し分け持ってもらうこと、まったく否定しません。疲れたら休めばいいし、時には逃げた方がいいこともたくさんあります。

でも、自分の問題が自然に解消されることはない、と思っていていいと思います。

自分の目がクリアになっていれば、「本物の支援」に気づけます。「本物の温かい心」に触れることができます。

自分の目を曇らせないこと、なかなか大変ですけどね。でも、失敗を繰り返し、多くの人を苦しめてきたからこそ、私はそう思っています。