金子稚子の「とんぼとかめ」日記

『ACP(アドバンス・ケア・プランニング)』『人生会議』を中心に、死や死別について考えることを記しています。

美談にして話をすり替えているのは、誰か

一昨日、死者が43人という大規模な院内感染が起きた東京台東区の永寿総合病院の湯浅祐二院長が記者会見を開きました。その中では、看護師と医師2人の手記も紹介されました。

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拝読し、率直に言って、生々しい証言とともに医療者としての使命と責任感が伝わってきて胸を打ちました。その後の報道も、過酷な状況で使命を果たしてくれた医療者への感謝がベースにあるようなものだったと思います。

その中で、TV番組での室井佑月氏の以下のような発言が注目を浴びました。

「だけど、こういう美談を出してきて、個人は悪くないよ、でも、病院は、熱が出た人たちがいたりするわけだから、こんなにコロナの患者を出しちゃったことは、やはり責められるべきで病院側、経営者は反省すべきなんだよね。なんかちょっとすりかえっぽく感じる」 

賛否両論というより、私が眺めている限りでは、否定的な反応の方が多かったようにも感じました。誰のせいでもない。最前線で戦っていただき、ともかく感謝しかないのに……というような。

 

また、ヒューマンエラーの観点を示しながら、心理学の立場からも指摘が入りました。

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まさしくおっしゃる通り。

(前略)人間のミスを原因とは見ずに、結果と見ます。様々な要因が絡んだ結果、事故につながる人間のミスが起きたと考え、ヒューマンエラーを発生させた要因を改善しようとするのです(失敗とヒューマンエラーの心理学:自分のパターンを知り対策を考えよう:Y!ニュース個人有料)。

原因は「人」の過失ではなく、そこに至ったさまざまな要因にある、ということですね。

筆者の碓井真史先生がおっしゃるように、「もっと気をつけるべきだった」と安易に現場を責めても何の解決にもなりません。

 

しかし一方で、「医療者の方々、ありがとう!」「献身的な姿に感銘を受けました」だけでも、私は足りないように思います。

 

本当に感謝しているのなら、病院の真の使命も理解し受け止めなければなりません。

 

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緩和ケア病棟に入院している患者は、多くが命の限りが見えてきている方々と言っていいでしょう。その最後に近い時間に、家族など親しい人との面会が禁止されたり制限されている、ということです。

 

なぜか。それは、緩和ケア病棟に入院している患者は重症化するリスクが高いということもありますが、医療スタッフへの感染も防御したいからです。

医療スタッフへの感染で、緩和ケア病棟以外の入院患者にも影響が及ぶかもしれません。また、永寿総合病院だけでなく、院内感染が起こり救急外来などが停止された病院もありましたよね。つまりその地域で救急搬送先が1つ減ったことになり、このことによって命を落とす人が出てくるかもしれない……。病院の機能が落ちるとは、こういう形でも影響が広がっていきます。

でも、最善を尽くしたとしても、何が起こるかわからない……。注意すれば万事OKなどということは、この世には存在しないこと、大人ならわかると思います。まして、未知のウイルスが全世界的に大流行している今、の話です。

だから、↑の記事にあるようなヒューマンエラーの観点からすれば、リスクを減らすためにも、面会禁止や制限などの措置がとられるのは当然のことでしょう。

私は、医療機関というのは、今回の新型コロナウイルスのような極限の状況では、個別の患者や家族の「安心」よりも、多くの人のために「安全」を優先するべきなんだと理解しました。

 

「最後の時を一緒に過ごせなかった」

「次に会えたのが遺骨だったなんて……」

そんな報道が数カ月前にありましたね。

厳しいことを書きますが、親しい人が亡くなり、それが自分が思ってもいないような別れ方だったとして、「それでも医療職の方々は最善を尽くしてくれた」と納得できるかどうかは、大切な人が亡くなってからでないとわかりません。当事者になってみないとわからないのが現実です(一応書いておきますが、他人が「病院もやれることはやってくれたんだから」と、慰めという形での説得?を試みるのも違うと思います。当人の苦悩は当人にしか理解できないし、当人自身が向き合うものです)

また、当事者になっても、時間の経過によって気持ちが変わっていくことも書き添えておきたいと思います。

 

伝えたいことを書きます。

美談にして話をすり替えている(かもしれない)のは、私たちの方です。

院内感染が起きた要因を分析し、しかるべき対策を取るのは、院内の専門家に任せましょう。それこそプロじゃなければできないこと。

医療職の方々に本当に感謝を伝えたいのならば、「もしもの時にどうするか」を考え始めることまでセットにしてほしい。

緩和ケアに携わる医療職の方々の苦悩が痛いほどわかります。人生の最終段階を生きる患者やその家族にして差し上げたいさまざまなケアができないのです。また、幸いにも日本はそこまでには至っていませんが、局面では、救う患者と救わない患者、それを現場の医師が選別しなければならなくなる可能性があります。

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感謝や敬意を伝えたいのならば、もう一歩進んで、彼らの苦悩を減らすことも始めてほしいと思います。

「患者さん本人が望んでいます」「ご家族も納得しています」

この言葉は、多くの場合、医療現場の方々に勇気を与えるはずです。

 

「もしも新型コロナウイルスに感染し、重症化したら……」。今ならリアルに想像できるはず。

茶飲み話でも酒の肴でも構いません。家族に限らず、身近な人と話し始めていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

怒りや悲しみへの共感は人の心を大きく動かし、強い力になり得る。でも……

先週は、ライフ・ターミナル・ネットワークの仲間から情報を得て、ある報道番組を拝見して思ったことを書こうと思っていました。

しかし、放送からまだ1週間も経っていないのに、動画どころかネット記事さえ検索してもヒットしない。あるにはあるが肝心の部分を避けたような内容の記事に、違和感を覚えて調べたところ……、なるほどそうでしたか、と思いました。

ameblo.jp

さらに↑の3日後には、TBSと協議して改めて近日中にご報告します、というブログがアップされていますので、私自身が書こうとしていたことはまた後日にするとして、↑のブログに書かれたご遺族の松永さんのお気持ち、私には少しだけわかるような気がします。

 

最後になりますが、対談した方を責めないで欲しいです。

あの様に、私と直接話をしてくださったことそのものに感謝しています。人それぞれ考え方に違いがあることは当然だと私は考えています。

放送されていない部分を含め、多くのことを学ばさせていただきました。

 

私はこの放送動画を拝見し、おそらく起こっただろうことが想像できました。それほどまでに、↑の文中に出てくる“対談した方”の言葉は、ご遺族にはかなり厳しいものだったので。正直、私のような者でさえ、さすがにそれはない、と思いました。でも同時に、これがリアルな高齢者だろうとも感じましたが(言うまでもないことですが、高齢の方の全員が全員、こうだというわけではありません。それは松永さんもお書きになっている通り、人それぞれの考え方だと思います。また、“対談した方”のお考えにもそういう面もあるだろうなと同意できたことも付け加えさせていただきます)

そして、それほどまでの言葉を、努めて冷静に受け止めている松永さんの姿を拝見し、松永さんがされようとしていることも深く伝わってきました。

(前略)私が今回対談をしようと思ったのは、免許返納の裏で日本全国でこの様な家庭があるという事実を私自身が勉強させて頂きたかったからです。

 

しかし、放送された内容は……、私の主観でいえば「あまりにも身勝手な高齢者」像が前面に出たものでした。

そして、死の前後(特に前)で起こるさまざまな問題に対して、一つの解決方法として私自身が広めていきたい「対話」について、僭越ながら松永さんにその手法をお教えできたら……とさえ思ってしまいました。

それくらい、松永さんが話を聞きながら苦しい思いをされていることも伝わってきたからです。もし彼がこのような対談(放送では「対話」とおっしゃっていたと記憶していますが)をこれからもしていこうというなら、ご自身の心身を守るためにも、身につけておいた方がいいと思ったからです。

 

おそらくあの放送を観た視聴者は、松永さんの苦しさを受け止め、そして“対談した方”に怒りを覚えたことでしょう。

ひょっとしたら、時々SNSに散見されるように、高齢者は早くこの世からいなくなればいいくらいの暴言も飛び交ったかもしれません。

でもそれは、↑の松永さんのブログを読めばわかる通り、彼の本意ではないし、またこの問題を解決できるものでもありません。

 

以前、「人生会議」のポスター騒動が起こった時に書いたことがありますが、遺族の声は非常に強い、ということを改めて思います。

もちろん、遺族の声でなければ伝わらないことも本当に多い。

でもそれは、遺族に貼り付けられた区別(時に「差別」と言ってもいいかもしれません)と表裏一体であることも確かです。

自分が伝えたいことがまっすぐに伝わらない。

松永さんはそう思ったかもしれません。少なくても私はある段階までそう思ってきました。

なぜならそれは、メディアの側にも受け取る側にも、「遺族」が強くすり込まれているからです。伝えたい内容よりも先に「遺族である」という強さだけが伝わってしまう……。言うなれば遺族レッテルです。そして、それを剥がすのは容易ではありません。

怒りや悲しみへの共感は、それほど人の心を大きく動かし、強い力になり得ます。でも同時に、その力は良くも悪くも自分にも向かうことが少なくない……。

 

4カ月ほど前の記事ですが、今朝、たまたま共有を見かけて拝読しました。

その中の一文をご紹介します。

(前略)当事者が出てくることになれば、「その人たちの物語」としての完結性を求めることになってしまう。登場した人たちがどのように傷ついてどのような人生を送ったのか、という人間の物語として完結させなければならなくなってしまう。

 もちろん、そういうドキュメンタリーもあっていい。だが、この被災地の性暴力という問題は「その人たちの物語」、つまり性暴力を経験した被害者だけの物語ではなく、被災した後で子どもたちや女性が傷つかないような防災体制について考えるドキュメンタリーなのだ。つまりは「私たちの物語」でもあるのだ、という視点を意識したのだろうと思う。(*強調はこちらでしています)

 

「災害時の性暴力に光を当てたドキュメンタリー」の話ですが、非常に共感しましたし、納得しました。同時に「私たちの物語」にする困難さも思いましたが……。

でも、「被害者」「遺族」の話を超えたところをめざすのなら、この手法に学ぶべきものも多いと思います。

 

ご家族を亡くされてまだ1年。どれほどの思いだろうと言葉もありません。少しでも心身が休まる時間があってほしいと願うばかりですが、それも難しいだろうことも想像に難くありません。でもどうか、疲れたら休んでいただけたらと思います。この戦いは難しく、長くかかるかもしれません……。

奥様とお嬢様のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お互いの身体感覚で相手との間合いを把握する」

5月の連休中に(といっても、事実上3月からほぼストップ状態でしたが……)、なかなか寝覚めの悪い夢を見ました。

見渡す限りすべてカラスの死骸!という状況の中、一歩一歩カラスの死骸を踏み潰しながら延々と歩き続ける夢です……。カラスのさまざまな死骸の様子、踏み込んだ足の感触もあまりにリアルで、半ば夢とわかっているのに「ひえ〜〜〜〜!なんでこんなところを歩かなければならないんだ!」と、叫びながら歩きました。で、その日は夕方までぐったりしてしまったほど(ちなみに、カラスの死骸の夢は吉夢と言われているようですが……。とてもそうとは思えない……汗)

なのですが、私の窓辺にはカラスがたびたびやってきます。ウォーキングの最中にもよく会いますし、そのユニークな様子に笑わされもします。しかし、時々ちょっと怖い。ちなみに、真正面から飛んできたカラスに、頭をワシャッ!とやられたこともあります……(やられる瞬間、カラスがニヤッと笑ったように見えたのは私の気のせいかもしれませんが)

 

そんなわけで、カラスは私にとってはなかなか無視できない存在……です。昨日、書店で↓の本を見かけた時には思わず手に取りました。

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カラスなど、さまざまな主に鳥類の話が満載な本だけれど(もちろんそれも楽しいです!)、私が買うと決めたのは、冒頭に書かれていた一文に深く頷いたからです。

どれほど高潔なことを説こうが、人間はヒトという動物種であり、生物としての原理に則って生命活動を行っているのと同じである。 

いや、ホント、おっしゃる通りだと思います。

死にまつわるさまざまなことに意識を向けていると、つい忘れてしまいそうになるこの感覚。別に高潔なことを言ったり書いたりしようなんて思ってはいないけれど、気を抜くと、必要以上に生き死にを特別なこととして捉えてしまうことがあります。生きて、そして死んでいくのは「生物としての原理に則っての生命活動」のはずなのに。

以前、大学の市民公開講座を企画していた時、医師でもある大学の先生から、生物学的な死という視点を教えていただきました。そして、人間は(というか生物は)、捉え方を変えるととてもシンプルな存在なんだと知ることができました。

つまり、生まれてきて、遺伝子情報を次世代へ伝え、そして死ぬ、ということ。生物が行うことはこれだけだと知って、霧が晴れたように感じたことを今でもよく覚えています。

で、その時は、子どもがいない私は、生物学的には「生物としての唯一の目的を果たすことができなかった個体」ということなんだなあと改めて思いました。こんな個体が生きてしまっているのも、きっと何か理由があるのだろうとも思いましたが(←この考え方は生物学的ではないですね…汗)。

 

いくら人間が恋い焦がれようと、向こうは別にこっちのことを好きじゃないのだ。それどころか、見たら逃げようとする。この後、カラスを研究するにあたっても、必要なのは「わかり合う」ではなく、まずはお互いの身体感覚で相手との間合いを把握する、つまり「渡り合う」ことであった。

*強調&下線はこちらで入れています

 

「まずはお互いの身体感覚で相手との間合いを把握する」。その通りだと思いました。人間は野生動物ではなく社会的な存在だという考え方があることもわかっています。

でも、生き死にがかかるそのものズバリな生命活動に直面した時には、正直、社会的な存在……みたいな考え方が物事をややこしくするようにも思えるのです。たとえば「○○すべきだ」という考え方など。

「家族は仕事や学校など放っておいて一生懸命看病するべきだ」「仲違いしていた家族は、死ぬ前には関係を修復すべきだ」「最後の最後まで治療し続けるべきだ」などなど。あるいは「先生の言うことは絶対だ」または「先生の話など聞いていてはだめだ」なども。

 

自分は死ぬのかもしれない。

私の家族の命はもう終わってしまうのかな。

……そんな時こそ、「まずはお互いの身体感覚で相手との間合いを把握する」ことから始めた方がいいんだろうと思います。たとえ親であろうが子であろうが、配偶者であろうが、それぞれ「個体」だから。

つまり、死ぬという自然な生命活動の1つに直面する個体は、自分(その人)自身だと改めて確認するところから始めた方がいい。

ややこしい物事に苦しむ方々が多い、というか、何より死に直面するその人が、周囲が起こすややこしいことで苦しむことが少なくないと感じるので、そう思います(その「ややこしさに苦しむこと」を、それが人生だとか、人間らしいという考え方もありますが、申し訳ないですが、そういう考え方は上から目線だと私には感じられる次第です。当事者が「これが人生だ」と言うのならともかくも……)

 

でも、そうは言っても……ですよね。もちろん、その苦しさは家族として経験しているのでわかります。でも、改めて問いたいです。真に死に直面する気持ちを分かり合うことなど、できるのだろうか、と。

私は、人生会議(=ACP;アドバンス・ケア・プランニング)を進めましょうという立場です。その大切さもよくわかっているつもりです。でもその前に、私たちは「わかり合えない(かもしれない)」ということを知っておいた方がいいとも思うのです。話し合うのは、それを前提にした上での方がいい。

 

「お互いの身体感覚で相手との間合いを把握する」。なんと腑に落ちる言葉なんでしょう!生き死にがかかる場面では、生物としての自分が本来持つ力が立ち上げるのかもしれません。頭でっかちな「社会的な存在」ばかりで生きていては、この局面では苦しくなるかも。当然これは、オンラインではできないことでもありますね……。