金子稚子の「とんぼとかめ」日記

『ACP(アドバンス・ケア・プランニング)』『人生会議』を中心に、死や死別について考えることを記しています。

自ら命を断つことの意味について 1

亡夫の7回目の命日が過ぎました。

夫が亡くなってから1年は、廃人のような状態でとても人前に出られませんでしたが、1年と少し経った後、ちょっとずつ人前でお話させていただくようになりました。

 

その頃から変わっていないスタンスは、死について、飾らず、直球で、伝えようということです。

私に対する「遺族への気遣い」は不要。私自身も「遺族への気遣い」や「今、闘病中の人やその家族への気遣い」も可能な限り排除し、ストレートな言葉を探してきました。

 

「どんな人にも必ず訪れる、100%決まっている未来」が死だからです。

どのような年齢、どのような社会的地位、どのような背景や物語を持つ人にも、あるいは、どれほど死に関する情報を持つ人にさえ、非情なほどに公平であるのが、死だと思っています。

 

★★

 

そのせいか、ここ数年、意外なところで意外な反応を戴くことが増えてきました。

 

先日は、消費者向けに金融関係の情報提供や教育を行う団体が主催する会で、終活をテーマにお話しさせていただきましたが、ここで出てきた質問が「安楽死についてどう思うか?」でした。

終活がテーマの場に、安楽死という言葉が登場してきているのです。

 

安楽死については、それを議論する前にさまざまな緩和医療が存在することや、また尊厳死とか平穏死とか自然死などと言われるものの実際(注:“定義”ではなく)についてもよく理解していないと、とても話し合いにならない……。

現在、社会に広まっている認識だけで、よい・悪いだけを断定的に下したところで、安楽死を検討せざるを得ないほどの苦しみを抱える人の問題には、到底近づけないからです。

さらに、その断定的な態度は、当事者の意識と大きくずれてしまうでしょう。本人の意思を最重要視すべきだという考えの私ですら、安楽死については「本人が自由に選択できればいいじゃないか」とはなかなか思えません。

*「安楽死」と、特に「尊厳死」の言葉の使い方が、メディアにおいて混在しています(尊厳死のことを「安楽死」と表記してしまっているメディアがそれなりに存在します)。ここで言う「安楽死」は、薬物投与などを行って積極的にその人の命を断つ行為を指します。つまり、自殺幇助と言い換えられる行為であり、当事者からすれば、そして言葉を選ばずに書けば…人の手を借りて自らの命を断つことになります。日本においては、安楽死は法律的に認められていません。

 

また、私の考えを伝えるのにも、おかしな伝わり方になる可能性が高く、というか、前提となる情報量が多すぎてとても端的には伝えることができず、今回のようなリアルな講演であっても、一般の方々にはおいそれとは話せないというのが現状です(ちなみに、緩和医療の1つである終末期鎮静についてだけで、自分の考えを以下のようにこれだけ書く必要がありました……)。

 

そういう意味で、もっともっと死の前後の情報が、あらゆる意味で偏りなく浸透していくことを望んでいます。

 

そして、さらに、たとえば自死についても……。

 

自死については、遺族の苦しみは当然のこと、その死のとらえ方もさまざまで、人によっては「人に話せない」「隠しておきたい」ものであり、また自ら命を断ったことに対する、言葉を選ばずに言えば責めるような考え方(「大切な命なのに、なぜ自ら捨てるのか」「生きたくても生きられない人もいるのに……」など)も社会の中には根強く存在します。

私などは、ただでさえタブー視されている死の中で、自死はさらに差別や区別に遭っていると思うほどです。

 

安楽死自死も、いわば「自ら死を選択する」という意味では同じであるのにも関わらず、人々のとらえ方が微妙に違うことに違和感を覚えます。

また、「自ら死を選択する」ということに対する反応が、人によっては驚くほど激烈であることにも、時として言葉を失います。

 

やはり、これをテーマに語り合うことは難しいかもしれない……。

死をテーマにする私でも、正直なところ、後回しにしたいものでもありました。

 

ところが、そんな時、そのことを語り合うのに別の道が見えたように感じたことがあったのです。

 

学生さんと、生き死にに関する対話の機会を得たのです。

死生学も研究する哲学者による、その大学での最終講座に参加させていただきました。

 

(2につづく)