金子稚子の「とんぼとかめ」日記

『ACP(アドバンス・ケア・プランニング)』『人生会議』を中心に、死や死別について考えることを記しています。

「人生会議」は、死に方の話し合いではない

なかなかACPについて書き進められない日々を送っていますが、また、この分野が注目されることはなかなか難しいな、などとも思っていたのですが、こんなことがありました。

 

11月30日の「人生会議の日」に合わせたのでしょう。厚生労働省が今月25日に「人生会議」を啓発するポスターを公表したところ、患者団体などから抗議が相次ぎ、予定していた全国の自治体へのポスター発送、ならびにPR動画の公開を見合わせました。

この結果、ネット上も含め、多くのメディアで、「人生会議(のポスター)」が取り沙汰されることになりました。

 

digital.asahi.com

www3.nhk.or.jp

 

 

ポスターを公表した直後に、発送中止を決定……。

 

この一報を見て、まず「あら、なぜ?」と思いました。

今、この瞬間も自分や家族の命と向き合う人たちが存在することは紛れもない事実で、また、遺族であっても死別の受け止め方はさまざまです。

 

こうした抗議や意見は、当たり前に想定されることであり、あえてこの表現のポスターを作成したのですね?と思っていたからです。

正直、ちょっと刺激が強すぎるかなとは思いましたが、見る人の心を良きにつけ悪しきにつけ“揺さぶる”ことが目的なのですね?とも受け取れたので。

 

その証拠に、ネット上でも、患者団体や医療関係者からの批判の声がたくさん目に入りました。

 

だから最初は、それさえもひょっとしたら織り込み済みの企画なの?炎上狙いとか?などと思いました。

中身はともあれ、「人生会議」という言葉をまずは広く知らしめることが、今年度の普及啓発事業の目標なのだと、そう理解していたのです。

 

……が、結果は、ポスター発送の中止とPR動画の公開見合わせ。

 

なぜなんでしょう……?

本当は、私が思っているような企画ではなかったのでしょうか。

 

◆◆◆

 

死の前後に関わること、それは「人生会議」で話し合われるような、もしもの時にどうしたいかという意向だったり、命に関わる医療の選択だったり。

あるいは大切な人と死別した悲しみだったり苦しみだったり、その人が大切にしてきた物やお金のことだったり、お墓をどうするかだったり。

 

こういうことって、思う以上に、人の考え方、とらえ方はさまざまです。

 

そして、忘れてはならないのは、想定以上に、激しい反応が返ってくることもしばしばです。

 

患者団体やご遺族からの声を読んでみても、それが伝わってきます。

中には、芸人さんをポスターに採用したことや、関西弁のコピーにすら批判的な意見がありました。

 

ちなみに、ポスターでモデルとなっている小籔千豊さんもご遺族です。

お母様と死別した際の経験から、人生会議の大切さを認識していることも公表なさっています。

つまり、このポスターをあまりに批判し続けてしまうと、それはそのまま別の考えを持つご遺族(&小籔さんと同じように死別を受け止めている他のご遺族)を批判することにもつながってしまう点も指摘したいと思います。

 

このポスターで問題だったのは、「誰に向けての啓発なのか」が、今ひとつわかりにくかった点ではないでしょうか。

 

ポスターを見た時、コピー、ビジュアルの表現からして、これは「人生会議」という言葉を知らず、もしもの時を考えたこともないような、そんな人に向けてのものだということが伝わってきました。

その手法として、少し笑いを加味した表現で、“敷居を下げて”考えてもらおうとしたのではないかな、と。

 

しかしそれは、今現在、闘病中の方やそのご家族、大切な人と死別し苦しみを抱える人の心まで、激しく揺さぶることになってしまいました。

 

私が想像するに、心電図の波形や患者衣、酸素吸入器といった、当事者にとっては苦しさや辛さと直結するあまりにもリアルなものが、まず目に飛び込んできたからなのではないかな、と。

ビジュアルの力が、知らない人にはわかりやすいものであっても、苦しさを抱える人にとっては強すぎたのかもしれません。

 

もしも、何も知らない人に向けての啓発ポスターならば、もっとその人たち向けに“振り切った”表現でもよかったかもしれません。

 

でも、個人的には、死に関することについては、人は本当にさまざまな考えやとらえ方をするので、それを前提としたポスターであってほしいと思います。

連作にするとか、さまざまな考えが表れているものであるとか。

 

いずれにしても、人生会議の中身はともあれ、「人生会議」という言葉自体は、この騒動のお陰で、多くの人に知られることになった……と思いたいと思います。

 

1枚のポスターから、本当にさまざまな意見、賛否両論が飛び交いました。

死についても、この「さまざまな考えや思いがある」ということが、もっと知られてほしい。

だから、話し合い続ける(=人生会議を行う)のですから。

 

 

◆◆追記◆◆

 

今回の騒動で、現場のお医者さんや看護師さんから聞いていたこと、患者さんや遺族の話からも感じていたことが、はっきりしました。

 

人生会議(専門用語では、ACP=アドバンス・ケア・プランニングと言います)を、やっぱりAD(専門用語で、アドバンス・ディレクティブと言います。「事前指示」と言われ、命の限りが見えてきた時にどういう医療を選択したいのか、事前に患者が意思表示することです)の延長線上にとらえている医療職の方が多いのかな、ということです。

 

Twitterにも「そもそもACPを国民に広める必要があるのか」「医療者がちゃんと運用できればいいのではないか」という医師の方々からのツイートがありました。

 

学術的には、終末期の患者にADがうまく運用できず、その結果、ACPという概念が登場してきた、ということになり、そうお感じになるのも当然のことだと思います。

でも、このACPが加わることになった、2018年3月改定の「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」を検討したメンバーの一人として指摘させていただきたいと思います。

 

ACPは、最期の医療を選択する(させる)、ということではありません。

 

このことへのこだわりもあり、検討会でも医師である委員から、ガイドラインの名称に「ケア」を入れるべきだ、という意見が出たほどです。

 

結果、「〜医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」という名称になりました。

介護や相談支援の専門家も、ACPには深く関わることになるわけです。

もっと言えば、介護の専門家も人によっては「ACP?以前からやっていることだよね?」という反応を示す人もいるほどです。

 

つまりそれは、「死ぬための準備」「死ぬまでの医療の選択」ではなく、「生きること」「生きる質」を支えるものである、という理解であってほしいのです。

 

医療の選択は、結果的にそうなった……というくらいのものであってほしい。

「死ぬ寸前まで仕事をしたい」という意思を受け、その時々にさまざまな医療が提案され、それを選択していった亡夫のように。

もちろんその意思を支えたのは、医療に関わる人だけではありません。

 

ACP(人生会議)とは、「死に方」の話し合いではない。

 

このことは、声を大にして言いたいと思います。