技術の使い方には気をつけて
すっかり出遅れましたが、こんなことが話題になっていたのですね。
亡くなった娘とVRで再会……。
ちょっと似た内容の話を某所から伺ったこともあり、この流れは加速するだろうなと思いました。
なぜなら、メディアにとって、この内容はコンテンツとしておいしいと感じるだろうから。
絶対に「激しい感情の発露」があり、だから「涙」があって、「物語」もある。映像としてもインパクトがあるでしょう。
視聴者も観たいという人が少なくない数いるだろうことが見込める。
また、VRであろうがなんであろうが、今は亡き大切な人に再会したいという遺族は多いでしょう。
“会う”ことで、今抱える悲しみや苦しみが癒やされる人もいるかもしれない。
でも……、生理的にイヤな感じを正直、受けます。
亡くなった人とは、1対1の関係だと言い続けています。
とても個人的なもので、プライバシーが守られなければならないものだと思います。言うなれば、亡き人と対した時は、隠しようがない“素の自分”“裸の自分”が表れてしまう。
というか、そんなときは、どうか我慢しないでほしい、自分自身にウソをつかないでほしい、思いっきりやってOK!と、遺族に対していつも思っていますし、伝えてもいます。
泣き叫ぶのはもちろん、怒っても、笑っても、文句を言ったっていい。
当然ですが、そうした感情を、他人がとやかく言うのも筋違いです(夫を亡くした妻はこうあるべき、とか、子を亡くした親はこうあるべき、という決めつけもなしです。ちなみに、こうした決めつけに苦しめられている遺族は少なくありません)。
このニュースにイヤな感じを覚えたのは、それが「見世物」になっているからなんだと気づきました。
人間の「激しい感情」や「素のその人」、しかも大切な人と死別した悲しみや苦しみを抱える人のことが、コンテンツとして“消費”されているような感じ。
必要な人に届けばいいという情報提供ではなく、「泣きたい」とか「感動したい」という赤の他人である第三者の欲望に応えようとしている気配。
そんなものに、生理的にNO!を突きつけたくなりました。
つまり、この企画において、VRという技術が「演出」に使われているから……。
激しい悲しみを癒やすために、こうした技術が使われることも今後増えてくるのかもしれません。グリーフケアの1つとして、エビデンスが重ねられていくこともあるかもしれません。
でも、どうかプライバシーは守られてほしい。
遺族が安心して気持ちを表せることができるような環境で、(使われるのなら、または希望する人がいるのなら)使ってほしい。
技術の進歩は止めることなどできないし、また、止める必要もないと私は思います。
でも、「使い方」にはどうか慎重であってほしい。特に命に関わること、人の生死に関わることにおいては……。
そんな風に思いました。
生理的にNO…、生物として「これはイヤだ!」と思う感覚も大事だと改めて思います。