金子稚子の「とんぼとかめ」日記

『ACP(アドバンス・ケア・プランニング)』『人生会議』を中心に、死や死別について考えることを記しています。

現実は映画「シン・ゴジラ」よりキツい

Twitterに流れてきたこの中の1つの言葉に、思わず笑ってしまいました。

 

「キレ散らかして」って、この混乱の中、なかなかうまいこと言うなあと思いました。テレビやSNSも含めて興奮して声が大きくなっていたり、責め合ったりしている状態から、「ま〜た、キレ散らかして(笑)」って、笑いながら距離を置けるから。

SNSなどを読んでいると止まらなくなってきます。もちろんいろいろ言いたいこともあるし、酷い!と共感したいこともある。でも、そういう言葉にまみれていると、自分自身も興奮してきて、どんどん言葉が荒くなっていってしまいます。もちろん、政治家や行政に「伝えなければならない声」というものもあります。

が、その中にどっぷり入り込んでしまう危険性も同時に意識していないと、見えるもの・見なければならないものも、そのうち見えなくなってしまいます。

独裁者は混乱に乗じてやってくる……でしたっけ?人は簡単に「正義」に騙されてしまうので。

この記事に、以下のような文章があります。

ヒトラーは、『真実でなくても、自分だけを一方的に褒め、責任は敵に負わせること』が宣伝の主眼だと述べています。(後略)」

「敵」は、なにも政府や政治家や国際組織やウイルスに限りません。天使の顔をした悪魔のような人に遭遇した経験のある人もきっといることと思います。「正義」や「正解」を求めすぎるのは危険だと、常に意識していたいものです。

 

そんなことを思いながら、今の政府の混乱ぶりに何か既視感があるなあと思っていました。

そして、ああ、そうだったと、映画「シン・ゴジラ」を観直しました。

shin-godzilla.jp

封切り当時も複数回劇場に観に行きましたが、今、改めて観るといろいろと身に沁みます。

Twitterでも、政府の混乱ぶりや対策チームの凄まじい奮闘ぶりがそっくりだと言っている人をたくさん見かけました。

それだけでなく、ゴジラが未知のものであり、形態を変化させていくところもウイルスとかぶります。

 

しかしながら、映画と現実では大きく違うことが2つあります。

1つは、ゴジラは目に見えるけれど、ウイルスは見えないこと。

このことは、かなり大きな違いです。映画にも出てきた、避難命令が出ているにも関わらず荷物をまとめていて逃げ遅れる人など、行政からの声をなかなか理解できない人は今、現実にもいますが、ゴジラはわかりやすく見えている。恐怖が形になっています

しかし、ウイルスは見えません。感染者数など数字は日々報道されていますが、数字を見て具体的に恐怖をイメージできる人はそんなに多くないのでしょう。なぜなら、日常生活が強制的に激変しないから。ゴジラが襲ってきた、などであれば、死ぬかもしれない!と思う人も大勢いるのでしょうが、ウイルスがもたらす恐怖については、海外の様子以外は具体的には伝わってきません(不可能を承知で書きますが、今、医療崩壊寸前まで来ているという都内の急性期病院の中の様子を映像で伝えれば違うのかなと思いますが。一方で、正常性バイアスも心配されますが)

だから、あれだけ朝から晩まで報道されていても、家にいてくださいと要請されていても、家族ぐるみで買い物に出かけたり、車で出かけたりできてしまっているのだと思います。

 

そして2つめは、(わかりやすく)力を合わせたり励まし合ったりできないこと。

映画では、首都圏に住む人が地方に疎開したり、地下や避難所で肩を寄せ合って励まし合ったりするような、大勢の人が密集するシーンが描かれていますが、新型コロナウイルスの対策では、これができません。

感染を防ぐには、要は「ともかく他の人と接触しないこと」に尽きます。散歩であろうが、買い物であろうが、ともかくそれぞれが人との接触回数を減らしていくことが今、必要です。散歩に行く時間帯を見直したり、買い物の回数も減らしたりと、そんな工夫が求められています(でも買いだめはいけません)。

しかし、人との接触が少なくなると、これはこれでかなりストレスだとわかりました。夫を亡くした後、ある意味、仕事も人間関係もリセットすることになった私自身、人とまったく会わないという時間がそれなりにありましたが、そんな私でさえ…。自分が望みさえすれば人と会うことができる、という疑ったこともないくらいに当然のことができなくなってはじめて、「人と直接会う」ということの意味と価値を再確認した思いでいます。

私たちはこれまで、自然災害を含めてさまざまな困難に遭遇してきました。でも、そのたびごとに、力を合わせて乗り越えてきました。会って話したり、握手したり、背中をさすったり、苦しい人に手を差し伸べて、あるいは差し伸べてもらって助け合ってもきました。

しかし、新型コロナウイルスは、そうしたリアルな接触にNOを突きつけています。

ネット上でも、励まし合ったりするやりとりも少なからずあります。しかし、どれほどの言葉を尽くしても、どれほどの行為をみんなで共有しても、リアルなコミュニケーションでなければ届かないことがある、とも改めて思います。もちろん、新型コロナウイルスに向き合うこれからの時間で、新しい何かが生まれてくるとも思っていますが。

 

映画「シン・ゴジラ」の中で、個人的に印象に残ったセリフがあります。通称「巨災対」に文部科学省から加わった高橋一生さん演じる安田が淡々と解説するひと言です。

ヤツ(ゴジラ)は、ただ移動しているだけです。なので、志向も特定できません。

新型コロナウイルスも同じなんでしょう。生物としてのなんらかの法則に則って遺伝子を次にバトンしようとしているだけ。だから、遺伝子の変異で強毒化する可能性だってあります(強毒化を防ぐためにも感染スピードをできる限り遅くする必要があり、だからこそ今、外出を避け人との接触を減らしてくれと要請されているわけですね)

また、「シン・ゴジラ」のラストも印象的です。すっぱりとわかりやすい結末ではなく、経済復興という厳しい道のりだけが明示され、むしろ物語が唐突に中断されたかのようなラスト……。

あまりにも現在(&これから?)の状況を予言しているかのような内容に、改めて思うことがたくさんありました。

が、でも「シン・ゴジラ」と同じく、今の私たちにもわかりやすい結末は訪れない、ということ、それから、「巨災対」のようなヒーローたちが新型コロナウイルスをやっつけてくれるわけではない、ということだけはわかっていた方がいいかもしれません。

可視化が難しい脅威を前に、私たちがすべきことは何か、ということを改めて考えつつ、私がすべきこと・できることは何か、とも改めて考えています。