母の日によせて
今日は母の日です。
母の日の由来については、ネットで調べてみてもいいでしょう。諸説あるようですが、有名なところでは、アメリカのある一人の女性が、亡き母への敬意と追悼の意を込めて教会でカーネーションを配ったことから始まった、というものがあります。日本にもすっかり定着している行事ですね。
……なのですが、私は少し違った角度から、母の日について思っていることを記しておこうと思います。
「お母さん、ありがとう」があふれるこの日の前後、つらい気持ちを抱える人たちのことがいつも気になります。
いわゆる毒母と言われる、難しい人が母親である人。
毒母まではいかなくても、母親との関係に苦しさを感じる人。
義母との関係に苦しむ人。
母親を亡くした人。
そして……、子どもを亡くした母親。
そういう方々に、子どものいない私ですが、いつも伝えたくなることがあります。
子どもは、その命が授けられた瞬間に、すでに役目を終えている、と。
大きな子ども、小さな子ども、この世に生まれてこなかった子ども……そんな子どもを亡くした母親たちからさまざまなお話を伺いました。
その大きな悲しみは、「悲しみ」という言葉だけではとても表せないものです。というか、子どものいない私には、想像すらできません。
しかし同時に、その悲しみの裏には、大きな喜びがあっただろうなということも、感じられました。命を我が身に宿した感覚、周囲の人の嬉しそうな様子、命が生きていると実感できる喜び、誕生の瞬間、子どもの重み、何の疑いもなく全身を預けてくる子どもからの大きな信頼、邪心ゼロの笑顔、精一杯の泣き声、毎日毎日積み重ねられていく成長…………。
そのすべてを、私は経験したことがありません。だから言えてしまいます。
筆舌に尽くしがたい悲しみや苦しみは、筆舌に尽くしがたい喜びや幸せとセットなのではないか、と。
それらはすべて、新しい命との出会いがなければ、決して得ることなどできないものだからです。
そう思うようになったのは、これもまた言葉には言い表せないほどの苦しさの末に、不妊治療の中止を決断した人の思いを聞いてからです。
喜びだけでなく、苦しいこともつらいことも、すべてを連れてきてくれる子どもを望んでも望んでも得ることができない、と受け入れることもまた、本当に苦しいことです。
だから、思うのです。子どもは、その命が授けられた瞬間に、すでに役目を終えている、と。
つまり、子どもは子どもとしての役目を終えた状態でこの世に生まれてきます。
親は、子どもに関連したあらゆる感情、あらゆる経験、あらゆる学びを、彼らから得るだけです。
だから、「生んでくれてありがとう」「育ててくれてありがとう」などと、言いたくなければ言わなくていい。そう私は思います。むしろ母親の方が、「あなたが来てくれて、私の人生はここまで豊かになった」と、感謝を伝える側なのかもしれません。
感謝は、(母親であってもなくても関係なく)他人からしてもらった行為、寄せてもらった思いに対してすることです。親だからしなければならない、ということではありません。
こうして考えてみると、介護についてもまた同じことが言えるのかもしれませんね。
「自分も育ててもらったから……」と親の介護を考えていると、どこかで行き詰まってしまうのかも。自分を育ててもらった代わりに、お礼として親の介護があるのでしょうか。
親子の関係に、ギブ・アンド・テイクは馴染まないと思います。
もうタイトルも忘れてしまいましたが、昔読んだ本の中に、こんな言葉がありました。今でも覚えています。
親は、輝く弓になれ。
引き絞り放たれた矢は、二度と戻ってきません。
そして、弓が強ければ強いほど、うまく引ければ引けるほど、矢は高く遠く飛んでいきます。加えて、矢が飛ぶべき方向は、弓ではなく何かによって、すでに定められているのかもしれません。
私たちは、矢であり、(私は叶いませんでしたが)弓でもあります。
決して同じ形ではありませんし、役割も違うのだと思います。