金子稚子の「とんぼとかめ」日記

『ACP(アドバンス・ケア・プランニング)』『人生会議』を中心に、死や死別について考えることを記しています。

強い人ってどんな人?

気がつけば、前回の更新から2カ月近くも経ってしまっていました(汗)。

もともとそんなに簡単には言語化できない(というか、簡単には言語化しないようにしている……ゆっくり考えることを重視して……とも言えますが)内容をここには書いているのですが、今回はちょっと違いました。

たぶん事件についていろいろ考えて影響を受けてしまったのでしょうが、心身の調子が悪かったからです。

お陰様でだいぶ回復しましたが、年を重ねても弱いというか繊細すぎるというか、そんな自分にやれやれと思います。……が同時に、そういう部分を失ってはいけないなとも思うようになりました。特に、人の死の前後をテーマにするようになってからは……。

 

「強い」と言われる人とは、どんな人だろう?と改めて思います。

物事に動じない?どんな時でも冷静?常に前向きではつらつとしている?いつも的確で適切な行動が取れる?……なるほど、一理あるし、実際、徹頭徹尾そういう人っているよなあと思います。人によっては、そういう「強い人」になりたくて、言い方は悪いですが、そのように演じている(=見せかけている)人もいるでしょう。

実際、私もそうだったと思います、若い頃は……。でも、残念ながら長続きしませんでした。どんな時でも冷静で、動じず、常に前向きで、はつらつと日々暮らしていても、それを上回るような出来事が私の人生には次々と起こったからです。

でもそれは、なにも私に限ったことではありません。

「それなりに人生経験を積んできて、そんなに簡単には動じないつもりでいたけど、上には上がある……」

「ホント、これでもか!というくらいの経験を積んだつもりでも、そのパターンがあったか!というような事が起こるよね」

夫ともそういう話をしましたし、仕事仲間や友人ともそんな話を何度もしてきました。

 

そして、夫と死別するという出来事が私の人生に起こりました。それ以前に、次の瞬間窒息死するかもしれないという状態の夫と向き合うには、どんなときでも冷静で、動じず、常に前向きで、はつらつと……という「強い人」のスタイル?フォーム?は、私にとってはまるで意味をなさないものでした。そもそも「的確で適切な行動」って、こんな場合に存在するのでしょうか(でも実際、たとえば「献身的な介護」「やさしい寄り添い」などのような、何かの基準を押し付けられることはありますよね……)

何か大変な問題が起こり、それに対峙しなければならない時にどうするかといった、自分の中でできあがっていた対処方法、向き合い方などの成功パターンは一切通用しない……。通用する・しない以前に、そんなことは思い浮かびもしませんでした。立っているのがやっと……。というか、立っていたかどうかもわからないくらいに、最初は動転し混乱していた……。

 

そんな経験を得てからでしょうか。私はそうした成功パターン?自分なりの対処方法?スタイル?フォーム?というものを手放したように思います。

冷静で、動じないようにしなければ……とは構えない。むしろ、動転したり混乱したり、あるいは怒ったり泣いたりという自分の心の動きを深く感じるようになりました。言うなれば「味わう」という感じ。

さらに言い方を変えれば、それがどのようなものであっても、自分の心の動きと距離を置けることを知った、ということでしょうか。どれほど激しく心揺さぶられても、激しく混乱し、地の底に叩きつけられたように感じても、必ず戻る、必ず戻ってこられると、信じられるようになったんだと思います。

そして、起こる変化(それは環境も自分の心も同じですが)を恐れなくなりました。……というか、変化を恐れないと覚悟を決めることができました。

変化とは、大切な人との死別も含みます。もう少しソフトに言えば、大切な人との関係の変化(死別に限らず、向いている方向が違ってきて……別居や離婚、あるいは別れなども…)もありますよね。もちろん職場や仕事そのものなどもそうです。

そんなわけで、私にとっての「強い人」を端的に言うとするなら、変化を受け入れられる人、変わっていくもの(他人も自分も。場合によっては社会も)を許せる人、そして必要ならば自分の信念というこだわりすら捨てられる人……そんな感じに変わっていきました。

 

……と、ここまで長らく書いてきましたが、なぜこんなことを書いたのかというと、「そのパターンですか、またしても!」ということが私の身に起こったからです。

本質的には同じことが繰り返し私の前に提示されている……そんな感じを受けます。案の定、すぐに体調不良に陥りました。それほど時を空けず、体調は戻っていますが……。

おそらく私の人生における主題なのかもしれません。変化を恐れないと覚悟を決めたと書きましたが、同じようなことが起こるということは、私自身が変わっていないということなのかもしれません。

 

世の中には絶対悪というものがあるんだろうか。
本人はそれこそ一生懸命に生きているだけなんだろう。
でもその方向は、まっすぐに「自分だけ」に向かっている。
生存をかけてのことだから、それこそ死に物狂いになっていることも多い。
ややこしいのは、本人の中ではそれが「絶対善」ともいうべき正義になっている場合だ。
だから迷いがない。
自分が「自分のためだけ」にしていることに、何の疑問もない。
何度もこういうことにぶち当たるなあ・・・。
しかも、どんどんすごくなっていく気もする。
私にはどんな役目が課せられているのかと思う。
私には、何が見えていないのか・・・。
私は、何をしなければならないのか・・・。

 と、こんな長いつぶやきをSNSに記しました。

さらに、上記を加えてこのブログにも記しました。

私はどう動くのでしょうか、まだ自分の中で定まっていません。自分がどう変化していくのか、本日は記録のためのブログとなりました。

 

*本日は内省的な内容になってしまいました。この時期はどうしてもこうなりがちです。子どもの頃からのリズムでもありますが、夫の命日が近いということも理由の一つ……。でもこの心の動きも大切にしたいと思っています。