金子稚子の「とんぼとかめ」日記

『ACP(アドバンス・ケア・プランニング)』『人生会議』を中心に、死や死別について考えることを記しています。

「全国民の健康」と「自分または家族の命」、どちらが大切か?

仕事柄、私は医療関係者とのつながりが少なくありません。プライベートでも、仕事を通しても、表には出せないような本音に近い言葉も聴いてきました。

特に医師はキャラクターが濃い人たちが多い印象で(笑)、捉え方も考え方も、また発せられる言葉もとても興味深い。思わず手を合わせてしまうような宗教家のような方もいれば、なに、それwwと笑ってしまうくらいに愉快な方もいます。

でも、その根底には、驚くほど似たものが横たわっているように感じます。

人、または命を救う。

病気、または苦痛を取り除く。

大雑把に言えば、こんな風にはっきりした使命(私は「自分の使い方」と捉えています)がある(時に、それがたとえば「人を助けている私が好き」という方向に100%向いてしまっているなあとお見受けする人もいますが…汗)。そう口にする人もいますが、口にしない人であっても、当たり前のように身に付いている……そんな風に感じます。

他の仕事では、たとえば「お金を稼ぐ」「お客様を笑顔にする」などを使命とする人もいるでしょう。でも、「命を救う」「苦痛を取り除く」ほどのシンプルさ、力強さには叶いません。命に関わる究極のところで役目を果たす医師は、やはり特別な仕事なんだと思います。

そんなわけで、それは教育の賜物なのでしょうか、あるいは同じ使命を持つ仲間意識なのでしょうか。本音はともあれ、医師の間には不文律というかマナーというか、お互いの仕事には口を出さない、お互いに一定のリスペクトをもって接する、という共通のふるまいがあるように感じます。

 

でも…………。

新型コロナウイルスに際しては、それが1年も続き、また終わりが見えない(ワクチンで本当に流行が終息するのかどうか、あるいはそれはいつなのか、「見込み」はあっても「確実なこと」は言えないし、また甘い見込みしか考えない、なんてことは医療者に限ってはないように思います……)状況下にある今、そのことは医師はもちろん、医療従事者をかなり精神的に追い詰めているように思います。

 

回りくどい書き方をしてしまいました。

メディアでの報道はもちろん、国の施策もそうですが、新型コロナウイルスの感染拡大防止が今、優先されています。

同じ医師でも、感染症の専門家の声の方が大きく(響かせているのはメディアであり、私たちだと思いますが)、前述したように医師の間の不文律のようなものもあるのでしょう、それ以外の専門の医師はあまり大きな声を出しません。

しかし、医師たちの前には、必ず患者がいます。感染防止としては「正しい方法」であっても、そのことにより、結果的にあまりよくない影響を受ける患者がいるはずです。

たとえば、手術の延期など。

あるいは、人生の最終段階を迎えている患者の希望を実現できないなども。

感染防止策が優先された状態が長く続いており、しかも終わりが見えないとあっては、いくら精神的にも肉体的にもタフで我慢強い医師であっても、自分の患者を前にしては、さすがにきついものがあるのではないでしょうか。

言い方を変えてみます。

今、医師をはじめとした医療従事者は、「全国民の健康」と「自分が担当する患者(&家族)」のどちらを優先するのか、という問いに日々(しかも長らく)向き合っているのと同じ状態ではないかと思うのです。

 

感染防止のために、東京ではがん専門病院も新型コロナウイルスの入院患者を受け入れています(特別入院病棟を設置し、軽症・中等症に限られる)。

病院としては、厳しい選択だったのではないかと想像しました。

なぜなら、本来ならがん患者のためにあるはずのこの病院の医療従事者の手やベッドが、たとえ一部だったとしても、新型コロナウイルスの入院患者のために割かれることになるからです。

もちろんこの病院が悪いわけではありません。東京都からの要請を受け入れるという決断には、どれほどの重さがあったことだろうと思います。

でも一方で、私には、すでにして命の選別が行われているように受け取れます。

種類や進行具合によっては、治療の遅れが命取りになる場合もあります。命に関わるという意味では、がんも変わりありません。

新型コロナウイルスによる死は、重い病気の人の治療を後回しにしてまで避けなければならないものなのでしょうか。

がんなどそれ以外の病気による死は、新型コロナウイルスによる死よりも軽いものなのでしょうか。

感染が拡大し始めてからずっと考えていることです。

もちろん答えはない。そして、簡単に答えを出すこともできません。でも、少なくてもこの葛藤を抱え続けることが大切だということは、改めて思います。苦しいですが…。

 

というわけで、一度選んでみたらどうかと思います。どちらも大切、などという逃げ道を用意せずに。

「全国民の健康」と「自分または家族の命」、どちらが大切か?

選べないという人は、あみだくじでもサイコロでもジャンケンでもいいから、とりあえず決めてみる。そして、たとえば「自分または家族の命」となった場合、どう感じるのか。あるいはなぜそちらを選択したのか。そこまで一歩踏み込んでみたらと思います。

きつい言い方をすれば、誰かの健康(命)と自分または家族の命を両天秤にかけるわけですから、「もちろん家族の方が大切でしょ」という人でも、その誰かにもあなたと同じように家族がいることを想像できなければなりません。つまり、あなたまたは家族の命と引き換えに、健康を害したり命を失ったりする人がいる、と想像するわけです。

重い病気を抱えている人も、健康な人も、患者の家族も、介護を受けている人も、その家族も、あるいはまったく人ごとだと思っている人も。

どちらを選んでもその選択は非常に重いものだと体感できるでしょう。その重さを知るだけでも、全然違ってくるはずです。

少なくても、相手の話をまず聴こうとできるようになるのではないでしょうか。たとえ自分とは違う考えであっても、その決断が重く厳しいものであることは理解できるからです。

 私たちに必要なのは、決断する厳しさや重さに共感できることではないかと思います。