金子稚子の「とんぼとかめ」日記

『ACP(アドバンス・ケア・プランニング)』『人生会議』を中心に、死や死別について考えることを記しています。

医療は人の苦痛を取り除くためにどこまで関わるものなのか

哲学者の竹之内裕文さんとnote上で対話を行っています。締め切りが大幅に過ぎている原稿に取りかかろうとしていたところに、一昨日、えっ!と思うニュースが飛び込んできました。

www.kyoto-np.co.jp

京都の女性患者になぜ仙台と東京の医師が関わっているのか? しかも「担当医ではなく、直接の面識はなかったとみられる」ともあり、混乱しました。

さらにニュースは続き、以下のようなものも。

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安楽死」という言葉がタイトルに躍っていることから想像されましたが、この第一報後、やはりSNSには「安楽死を法制化しろ」「死ぬ権利」などの言葉が目につきました。

中には、なぜこの医師が逮捕されるのか、個人の意思より家族や病院の利益が優先されるのか、などという声もありました。

一方で、他の報道機関による取材でさらに詳細が判明していき、同時に「安楽死」やALS患者を巡る課題なども紹介されるようになっていきました。

www3.nhk.or.jp

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医師2人が嘱託殺人の疑いで逮捕されたこの件には、さまざまな側面があり、そこに私たちが向き合うべき課題も複数ありますが、今日は安楽死の法制化(というか、その前に「いわゆる尊厳死法案」についてどう考えるか、という段階を踏んだ方がいいと思うのですが)ではなく、医療について思うことを書きまとめてみます。

 

私たちが病院に行こう、医療サービスを受けようという時は、どんな時でしょうか。

言うまでもなく、体調が悪かったりケガをしたりした時ですよね? 健康な時に、わざわざ診察を受ける人はいません(まあ、ゼロとは言えませんが……)。

そしてその時、お医者さんは何をしてくれるでしょうか。

診察をして、時に検査をして診断し、痛いとか熱があるとか、かゆいとか切ったとか、そんな苦痛を取り除いてくれます。薬を投与したり処方したり、縫ったり、場合によっては手術したりして。

苦痛を取り除いてくれるので私たちはつい忘れがちですが、そしてもちろんすべてがそうではありませんが、たとえば薬であっても、種類や量を間違えたり、あるいは投与の仕方を間違えたりすると、下手したら命を失うこともあるものです。命を失わないまでも、(近頃は医療ドラマでも描かれることがありますが)薬の事故で死にそうになったり、あるいは抗がん剤を想像していただければわかりますが副作用という別の苦痛を味わうこともありますよね。

手術も同じです。体の中で起きていることの対処のために、刃物(メス)で体を傷つけ、体内にある臓器にアプローチします。切れているところがあれば縫い、不足があればそれを補い、場合によっては心臓さえ止めたりします。

こんな風に、人間の命にダイレクトに関わるから、医師は免許制です。命の危険があることを行うから、免許が必要なのです(そういう意味では自動車などの免許も同じですね。ルールを守れなければ下手すると人を殺してしまいます…)。そして、医師法という法律によって職務なども規定されています。

ではなぜ、こんな危険なことをするのか。なぜ私たちは、こんな危険なことを他人に許しているのか。

最初に戻りますが、それは自分が抱える苦痛を取り除くためです。たとえ副作用とトレードオフしても、成功率が100%じゃなくても、このままではもっと苦痛が酷くなるから、下手したら死んでしまうから、薬の投与や手術を許しているのです。

つまり言い換えれば、そして極言すれば、医療とは人の苦痛を取り除くために行われる行為だと私は思っています。

それをできる限り安全に、且つ安定的に、公平に、より多くの人に提供するために、医療分野では人体の解明を進め、治療の創意工夫や研究が行われ、薬も生み出され、保険制度も進展してきました。もちろん人材の育成も。

この歩みが止まらないのは、人の苦痛をすべて取り除くことができないからです。よくわからない病気もありますし、治療法が見つかっていない病気もたくさんあります(ALSもそのうちの1つですよね。あるいはがんも……)。

人の苦痛を取り除くために、(専門分野はそれぞれ違っても)その苦痛に正面から向き合い続けているのが、医師をはじめ、医療現場で働く人々と言っていいのではないでしょうか。

 

そして。

医療が向き合う「人の苦痛」の延長線上にも、治らない病気を前にしての生きる苦痛、自分の死を明確に見据えた上での生きる苦痛が存在します。

(治すための)治療はもうこれ以上ない。つまり……打つ手がない。医療には、厳しいですがそんな現実もあります。

しかし、それでも人の苦痛を取り除くための医療は最後まで続きます。病気は治らないけれど、痛いとか苦しいとか、そういう苦痛そのものに向き合う医療。それが、緩和医療(・ケア)という分野だと私は理解しています(もう少し詳しく書いておきますが、緩和医療は死に近い段階から始まるものではありません。痛いとか苦しいなどという苦痛そのものを専門とする分野なので、たとえばがん治療が始まったばかりでも、緩和医療は並行して行われるべきものです)

 

でも、私はいつも思います。

医師は、医療は、人の苦痛を取り除くために、一体どこまで関わるものなのか。

関わる「べき」とは思いません。それを決めるのは、というか、それが決まるのは、関係性によってだと思うから。つまり、ある段階から先は、医療が関わるのはここまで、と定めるものでも定められるものでもないと思っています(だから「ガイドライン」や「提言」という形のものが存在していますよね。そしてもちろん、身体的な痛さや苦しさには医療的な処置がありますし、その研究も日夜進んでいます)

なぜなら、不確定なこと、数値化できないこと、よって定めにくいことに、医療分野はあまり向いていないと思うから。それは↑に書いたように、医療はより安全に、安定的に、公平に、より多くの人に……と進展してきたものだからです。

そして、医療機関で働く人たちは、新型コロナウイルスのことでもはっきりしましたが、厳密な手順、ルール、命令系統の下にあり、それが日常です。でも、治らない病気を前にしての生きる苦痛、自分の死を明確に見据えた上での生きる苦痛への対応は、その文化にはなかなかなじみません。生きることそのものには、「これが正しい」とか「これが答えだ」というものがないからです。

患者の苦痛をどうにかしてあげたい。少しでも楽にしてあげたい。その気持ちは本当にありがたく、尊いものです。でも、死を前にしての生きる苦痛に対して、あるやり方をハウツー化し、その方法のみが“正解”となった時、どうなるでしょうか(より安全に、安定的に、公平に、より多くの人に提供するために、医療分野の進む方向は平準化に向かいやすいと私は思っています)

 

今回の一件は、まだ全容が明らかになっていません。しかし、もしも報道通りだったとしたら。こうした医療の文脈だけで「生きる苦痛」について考えることには、かなりの抵抗感があります。

また、私たち自身も、生き死にに関わることを考える時、医療へのまなざしを変える必要があることに気づかなければなりません。

私たちの苦痛を取り除いてくれる医療。たとえ治療をしてきた延長線上にあるとしても、「生きる苦痛」への対応は、果たして医療だけで解決できるものだろうか、と。安楽死の是非をYesかNoかでやりあっている様を見ると、安易な議論のようにしか感じられてなりません。

どうしたらいいかわからない。答えが見つからない。なかなか前に進まない……。そんな状態は苦しいです。それは患者本人も、また関わる専門職や家族・友人も。

でも、そこを共有することから始められたらと思います。それが「人生会議」でもあるはずだから。

 

逮捕前の取材に対し、父親は「娘はどうして自分が病気になるのかとずいぶんと落ち込み、ショックを受けていました。私も初めて聞く病気で何をしてあげればいいか分からず、暗中模索でした。頭はしっかりしているだけにつらかったと思います」と振り返りました。

また、娘が医師に殺害を依頼したとみられることについて、「知っていたらもちろん、止めています。娘の気持ちは尊重したいですが、これでよかったのかとも思われますし、本当に複雑な気持ちで葛藤しています」と、自分に言い聞かせるように語っていました。

上の記事から、亡くなった女性のお父様のコメントを抜粋しました(下線はこちらで入れています)

お父様の心情もさることながら、関わっていた主治医や介護関係者が今、どのように思っているのか、とても心配です……。

 

自分の苦しさは自分にしかわからない。その通りです。でも、それほどの苦しさを抱える人を見守るしかできない周囲の苦しさも存在します。そしてそれも、当人にしかわからないことです。

専門家であろうがなかろうが、わからない者同士が向き合うのが、命を前にしての場です。そしてそこには、答えがない。

この点、その後の報道から見えてくるやりとりには、医師の傲慢さをどうしても感じてしまいました。それが「患者の苦痛を取り除いてあげたい」という思いからだったとしても。

 

 

 

 

 

 

美談にして話をすり替えているのは、誰か

一昨日、死者が43人という大規模な院内感染が起きた東京台東区の永寿総合病院の湯浅祐二院長が記者会見を開きました。その中では、看護師と医師2人の手記も紹介されました。

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拝読し、率直に言って、生々しい証言とともに医療者としての使命と責任感が伝わってきて胸を打ちました。その後の報道も、過酷な状況で使命を果たしてくれた医療者への感謝がベースにあるようなものだったと思います。

その中で、TV番組での室井佑月氏の以下のような発言が注目を浴びました。

「だけど、こういう美談を出してきて、個人は悪くないよ、でも、病院は、熱が出た人たちがいたりするわけだから、こんなにコロナの患者を出しちゃったことは、やはり責められるべきで病院側、経営者は反省すべきなんだよね。なんかちょっとすりかえっぽく感じる」 

賛否両論というより、私が眺めている限りでは、否定的な反応の方が多かったようにも感じました。誰のせいでもない。最前線で戦っていただき、ともかく感謝しかないのに……というような。

 

また、ヒューマンエラーの観点を示しながら、心理学の立場からも指摘が入りました。

news.yahoo.co.jp

まさしくおっしゃる通り。

(前略)人間のミスを原因とは見ずに、結果と見ます。様々な要因が絡んだ結果、事故につながる人間のミスが起きたと考え、ヒューマンエラーを発生させた要因を改善しようとするのです(失敗とヒューマンエラーの心理学:自分のパターンを知り対策を考えよう:Y!ニュース個人有料)。

原因は「人」の過失ではなく、そこに至ったさまざまな要因にある、ということですね。

筆者の碓井真史先生がおっしゃるように、「もっと気をつけるべきだった」と安易に現場を責めても何の解決にもなりません。

 

しかし一方で、「医療者の方々、ありがとう!」「献身的な姿に感銘を受けました」だけでも、私は足りないように思います。

 

本当に感謝しているのなら、病院の真の使命も理解し受け止めなければなりません。

 

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緩和ケア病棟に入院している患者は、多くが命の限りが見えてきている方々と言っていいでしょう。その最後に近い時間に、家族など親しい人との面会が禁止されたり制限されている、ということです。

 

なぜか。それは、緩和ケア病棟に入院している患者は重症化するリスクが高いということもありますが、医療スタッフへの感染も防御したいからです。

医療スタッフへの感染で、緩和ケア病棟以外の入院患者にも影響が及ぶかもしれません。また、永寿総合病院だけでなく、院内感染が起こり救急外来などが停止された病院もありましたよね。つまりその地域で救急搬送先が1つ減ったことになり、このことによって命を落とす人が出てくるかもしれない……。病院の機能が落ちるとは、こういう形でも影響が広がっていきます。

でも、最善を尽くしたとしても、何が起こるかわからない……。注意すれば万事OKなどということは、この世には存在しないこと、大人ならわかると思います。まして、未知のウイルスが全世界的に大流行している今、の話です。

だから、↑の記事にあるようなヒューマンエラーの観点からすれば、リスクを減らすためにも、面会禁止や制限などの措置がとられるのは当然のことでしょう。

私は、医療機関というのは、今回の新型コロナウイルスのような極限の状況では、個別の患者や家族の「安心」よりも、多くの人のために「安全」を優先するべきなんだと理解しました。

 

「最後の時を一緒に過ごせなかった」

「次に会えたのが遺骨だったなんて……」

そんな報道が数カ月前にありましたね。

厳しいことを書きますが、親しい人が亡くなり、それが自分が思ってもいないような別れ方だったとして、「それでも医療職の方々は最善を尽くしてくれた」と納得できるかどうかは、大切な人が亡くなってからでないとわかりません。当事者になってみないとわからないのが現実です(一応書いておきますが、他人が「病院もやれることはやってくれたんだから」と、慰めという形での説得?を試みるのも違うと思います。当人の苦悩は当人にしか理解できないし、当人自身が向き合うものです)

また、当事者になっても、時間の経過によって気持ちが変わっていくことも書き添えておきたいと思います。

 

伝えたいことを書きます。

美談にして話をすり替えている(かもしれない)のは、私たちの方です。

院内感染が起きた要因を分析し、しかるべき対策を取るのは、院内の専門家に任せましょう。それこそプロじゃなければできないこと。

医療職の方々に本当に感謝を伝えたいのならば、「もしもの時にどうするか」を考え始めることまでセットにしてほしい。

緩和ケアに携わる医療職の方々の苦悩が痛いほどわかります。人生の最終段階を生きる患者やその家族にして差し上げたいさまざまなケアができないのです。また、幸いにも日本はそこまでには至っていませんが、局面では、救う患者と救わない患者、それを現場の医師が選別しなければならなくなる可能性があります。

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感謝や敬意を伝えたいのならば、もう一歩進んで、彼らの苦悩を減らすことも始めてほしいと思います。

「患者さん本人が望んでいます」「ご家族も納得しています」

この言葉は、多くの場合、医療現場の方々に勇気を与えるはずです。

 

「もしも新型コロナウイルスに感染し、重症化したら……」。今ならリアルに想像できるはず。

茶飲み話でも酒の肴でも構いません。家族に限らず、身近な人と話し始めていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

怒りや悲しみへの共感は人の心を大きく動かし、強い力になり得る。でも……

先週は、ライフ・ターミナル・ネットワークの仲間から情報を得て、ある報道番組を拝見して思ったことを書こうと思っていました。

しかし、放送からまだ1週間も経っていないのに、動画どころかネット記事さえ検索してもヒットしない。あるにはあるが肝心の部分を避けたような内容の記事に、違和感を覚えて調べたところ……、なるほどそうでしたか、と思いました。

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さらに↑の3日後には、TBSと協議して改めて近日中にご報告します、というブログがアップされていますので、私自身が書こうとしていたことはまた後日にするとして、↑のブログに書かれたご遺族の松永さんのお気持ち、私には少しだけわかるような気がします。

 

最後になりますが、対談した方を責めないで欲しいです。

あの様に、私と直接話をしてくださったことそのものに感謝しています。人それぞれ考え方に違いがあることは当然だと私は考えています。

放送されていない部分を含め、多くのことを学ばさせていただきました。

 

私はこの放送動画を拝見し、おそらく起こっただろうことが想像できました。それほどまでに、↑の文中に出てくる“対談した方”の言葉は、ご遺族にはかなり厳しいものだったので。正直、私のような者でさえ、さすがにそれはない、と思いました。でも同時に、これがリアルな高齢者だろうとも感じましたが(言うまでもないことですが、高齢の方の全員が全員、こうだというわけではありません。それは松永さんもお書きになっている通り、人それぞれの考え方だと思います。また、“対談した方”のお考えにもそういう面もあるだろうなと同意できたことも付け加えさせていただきます)

そして、それほどまでの言葉を、努めて冷静に受け止めている松永さんの姿を拝見し、松永さんがされようとしていることも深く伝わってきました。

(前略)私が今回対談をしようと思ったのは、免許返納の裏で日本全国でこの様な家庭があるという事実を私自身が勉強させて頂きたかったからです。

 

しかし、放送された内容は……、私の主観でいえば「あまりにも身勝手な高齢者」像が前面に出たものでした。

そして、死の前後(特に前)で起こるさまざまな問題に対して、一つの解決方法として私自身が広めていきたい「対話」について、僭越ながら松永さんにその手法をお教えできたら……とさえ思ってしまいました。

それくらい、松永さんが話を聞きながら苦しい思いをされていることも伝わってきたからです。もし彼がこのような対談(放送では「対話」とおっしゃっていたと記憶していますが)をこれからもしていこうというなら、ご自身の心身を守るためにも、身につけておいた方がいいと思ったからです。

 

おそらくあの放送を観た視聴者は、松永さんの苦しさを受け止め、そして“対談した方”に怒りを覚えたことでしょう。

ひょっとしたら、時々SNSに散見されるように、高齢者は早くこの世からいなくなればいいくらいの暴言も飛び交ったかもしれません。

でもそれは、↑の松永さんのブログを読めばわかる通り、彼の本意ではないし、またこの問題を解決できるものでもありません。

 

以前、「人生会議」のポスター騒動が起こった時に書いたことがありますが、遺族の声は非常に強い、ということを改めて思います。

もちろん、遺族の声でなければ伝わらないことも本当に多い。

でもそれは、遺族に貼り付けられた区別(時に「差別」と言ってもいいかもしれません)と表裏一体であることも確かです。

自分が伝えたいことがまっすぐに伝わらない。

松永さんはそう思ったかもしれません。少なくても私はある段階までそう思ってきました。

なぜならそれは、メディアの側にも受け取る側にも、「遺族」が強くすり込まれているからです。伝えたい内容よりも先に「遺族である」という強さだけが伝わってしまう……。言うなれば遺族レッテルです。そして、それを剥がすのは容易ではありません。

怒りや悲しみへの共感は、それほど人の心を大きく動かし、強い力になり得ます。でも同時に、その力は良くも悪くも自分にも向かうことが少なくない……。

 

4カ月ほど前の記事ですが、今朝、たまたま共有を見かけて拝読しました。

その中の一文をご紹介します。

(前略)当事者が出てくることになれば、「その人たちの物語」としての完結性を求めることになってしまう。登場した人たちがどのように傷ついてどのような人生を送ったのか、という人間の物語として完結させなければならなくなってしまう。

 もちろん、そういうドキュメンタリーもあっていい。だが、この被災地の性暴力という問題は「その人たちの物語」、つまり性暴力を経験した被害者だけの物語ではなく、被災した後で子どもたちや女性が傷つかないような防災体制について考えるドキュメンタリーなのだ。つまりは「私たちの物語」でもあるのだ、という視点を意識したのだろうと思う。(*強調はこちらでしています)

 

「災害時の性暴力に光を当てたドキュメンタリー」の話ですが、非常に共感しましたし、納得しました。同時に「私たちの物語」にする困難さも思いましたが……。

でも、「被害者」「遺族」の話を超えたところをめざすのなら、この手法に学ぶべきものも多いと思います。

 

ご家族を亡くされてまだ1年。どれほどの思いだろうと言葉もありません。少しでも心身が休まる時間があってほしいと願うばかりですが、それも難しいだろうことも想像に難くありません。でもどうか、疲れたら休んでいただけたらと思います。この戦いは難しく、長くかかるかもしれません……。

奥様とお嬢様のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。