金子稚子の「とんぼとかめ」日記

『ACP(アドバンス・ケア・プランニング)』『人生会議』を中心に、死や死別について考えることを記しています。

「お互いの身体感覚で相手との間合いを把握する」

5月の連休中に(といっても、事実上3月からほぼストップ状態でしたが……)、なかなか寝覚めの悪い夢を見ました。

見渡す限りすべてカラスの死骸!という状況の中、一歩一歩カラスの死骸を踏み潰しながら延々と歩き続ける夢です……。カラスのさまざまな死骸の様子、踏み込んだ足の感触もあまりにリアルで、半ば夢とわかっているのに「ひえ〜〜〜〜!なんでこんなところを歩かなければならないんだ!」と、叫びながら歩きました。で、その日は夕方までぐったりしてしまったほど(ちなみに、カラスの死骸の夢は吉夢と言われているようですが……。とてもそうとは思えない……汗)

なのですが、私の窓辺にはカラスがたびたびやってきます。ウォーキングの最中にもよく会いますし、そのユニークな様子に笑わされもします。しかし、時々ちょっと怖い。ちなみに、真正面から飛んできたカラスに、頭をワシャッ!とやられたこともあります……(やられる瞬間、カラスがニヤッと笑ったように見えたのは私の気のせいかもしれませんが)

 

そんなわけで、カラスは私にとってはなかなか無視できない存在……です。昨日、書店で↓の本を見かけた時には思わず手に取りました。

www.shinchosha.co.jp

 

カラスなど、さまざまな主に鳥類の話が満載な本だけれど(もちろんそれも楽しいです!)、私が買うと決めたのは、冒頭に書かれていた一文に深く頷いたからです。

どれほど高潔なことを説こうが、人間はヒトという動物種であり、生物としての原理に則って生命活動を行っているのと同じである。 

いや、ホント、おっしゃる通りだと思います。

死にまつわるさまざまなことに意識を向けていると、つい忘れてしまいそうになるこの感覚。別に高潔なことを言ったり書いたりしようなんて思ってはいないけれど、気を抜くと、必要以上に生き死にを特別なこととして捉えてしまうことがあります。生きて、そして死んでいくのは「生物としての原理に則っての生命活動」のはずなのに。

以前、大学の市民公開講座を企画していた時、医師でもある大学の先生から、生物学的な死という視点を教えていただきました。そして、人間は(というか生物は)、捉え方を変えるととてもシンプルな存在なんだと知ることができました。

つまり、生まれてきて、遺伝子情報を次世代へ伝え、そして死ぬ、ということ。生物が行うことはこれだけだと知って、霧が晴れたように感じたことを今でもよく覚えています。

で、その時は、子どもがいない私は、生物学的には「生物としての唯一の目的を果たすことができなかった個体」ということなんだなあと改めて思いました。こんな個体が生きてしまっているのも、きっと何か理由があるのだろうとも思いましたが(←この考え方は生物学的ではないですね…汗)。

 

いくら人間が恋い焦がれようと、向こうは別にこっちのことを好きじゃないのだ。それどころか、見たら逃げようとする。この後、カラスを研究するにあたっても、必要なのは「わかり合う」ではなく、まずはお互いの身体感覚で相手との間合いを把握する、つまり「渡り合う」ことであった。

*強調&下線はこちらで入れています

 

「まずはお互いの身体感覚で相手との間合いを把握する」。その通りだと思いました。人間は野生動物ではなく社会的な存在だという考え方があることもわかっています。

でも、生き死にがかかるそのものズバリな生命活動に直面した時には、正直、社会的な存在……みたいな考え方が物事をややこしくするようにも思えるのです。たとえば「○○すべきだ」という考え方など。

「家族は仕事や学校など放っておいて一生懸命看病するべきだ」「仲違いしていた家族は、死ぬ前には関係を修復すべきだ」「最後の最後まで治療し続けるべきだ」などなど。あるいは「先生の言うことは絶対だ」または「先生の話など聞いていてはだめだ」なども。

 

自分は死ぬのかもしれない。

私の家族の命はもう終わってしまうのかな。

……そんな時こそ、「まずはお互いの身体感覚で相手との間合いを把握する」ことから始めた方がいいんだろうと思います。たとえ親であろうが子であろうが、配偶者であろうが、それぞれ「個体」だから。

つまり、死ぬという自然な生命活動の1つに直面する個体は、自分(その人)自身だと改めて確認するところから始めた方がいい。

ややこしい物事に苦しむ方々が多い、というか、何より死に直面するその人が、周囲が起こすややこしいことで苦しむことが少なくないと感じるので、そう思います(その「ややこしさに苦しむこと」を、それが人生だとか、人間らしいという考え方もありますが、申し訳ないですが、そういう考え方は上から目線だと私には感じられる次第です。当事者が「これが人生だ」と言うのならともかくも……)

 

でも、そうは言っても……ですよね。もちろん、その苦しさは家族として経験しているのでわかります。でも、改めて問いたいです。真に死に直面する気持ちを分かり合うことなど、できるのだろうか、と。

私は、人生会議(=ACP;アドバンス・ケア・プランニング)を進めましょうという立場です。その大切さもよくわかっているつもりです。でもその前に、私たちは「わかり合えない(かもしれない)」ということを知っておいた方がいいとも思うのです。話し合うのは、それを前提にした上での方がいい。

 

「お互いの身体感覚で相手との間合いを把握する」。なんと腑に落ちる言葉なんでしょう!生き死にがかかる場面では、生物としての自分が本来持つ力が立ち上げるのかもしれません。頭でっかちな「社会的な存在」ばかりで生きていては、この局面では苦しくなるかも。当然これは、オンラインではできないことでもありますね……。

 

 

化けの皮がはがれていく……

よいタイミングで書くことができなかったので、もうこの話題は流れてしまったと思っていますが……。

幻冬舎の編集者が女性ライターに……という問題。週刊文春が記事にし、それがネットで拡散し……というところまでは追っていましたが、その後もまた、やれやれという報道があり、掲載写真に思わずのけぞり……となっていました。

現在もTwitterで怒っているプロの物書きの方々もいて、その怒りももっともだと思っています。

私のTwitterのTLには、主に男性、しかもそれなりの年齢でキャリアのあるプロの物書きの方々の怒りがたびたび流れてきていました。しっかり追えていなかったので、怒りの根源をつかむことはできていませんが、でも、(ほぼ同世代なので)ちょっとわかるかな……。

 

私自身は、若い頃から出版業界で働かせてもらっていましたが、サッカーという特殊?な分野だったせいかい、この女性ライターのような思いは一度もしたことがありません。

Jリーグが始まる前からのことですので、サッカーよりは野球ファンが多く、したがってメディアの扱いもとても小さかった……。だからか、サッカー報道に関わるマスコミはサッカー大好き!というようなほぼ男性ばかり。当時、私が知る限りでも、英字新聞を含めても3〜4人くらいしか女性記者はおらず、カメラマンも私の後輩だけでした(私のような編集者もほぼ数人)。

なので、チームのクラブハウスに取材に行くと、選手から「ハイヒールで芝生に入ってくんなよっ!」と大声で怒鳴られることはあっても(そんなことをするはずもなく、スニーカーを履いた足を上げて「大丈夫ですよっ!」と言い返してましたが)、女性扱い?されることはほぼなかったと記憶しています。

また、そんな男だらけの仕事場でも、セクハラまがいのことをされたことは皆無。ともかくも締め切りに追われ、男も女もなく、仕事に熱中していました。

 

……と、そんなことが「異常なこと」だと知ったのは、サッカーの仕事から一時離れた頃のことだったでしょうか。30歳は過ぎていたかな。たまたま仕事で一緒になった、私より若い女性ライターから、「友達のライターが出版社の社員編集者にレイプされた」という話を聞いたのです。

はい?と、今から思えば、まるでわかっていない反応だったと思います。でも正直、「そんなことが起こるの?仕事なのに?」と思っていました。笑えるほどに、私は何も知らない人間でした。

でも、話を聞いているうちに、私の環境の方が変わっているのだとわかりました。話してくれた若手女性ライターは、涙ながらに「こんなに親身になって話を聞いてもらったのは初めてだ」と言っていました。そう、「そんなことはよくあること」と、それくらい受け流すように言われるのです。

恥ずかしながら、レイプはともあれ、オジサマの軽口(今ならセクハラ認定できますが)くらいは受け流さないと、あなたは職場でやっていけなくなる、と若い女性にアドバイスしたこともあります。私が今、若い方々が今もなお女性蔑視に苦しめられている様を見て、自分がどれほどだめな対応をしてきたかと反省しているのも、その経験があるからです(まあ、ついでにちょっと書かせてもらうと、年齢&性差別のダブルである“オバサン差別”もありますがね……。これは男女&年齢関係なく、なさる方はなさいますけど。特に若い女性に対しては、あなたの未来なんですよ〜と思って見守っていますが…。あ、もちろん“オジサン差別”もありますね)

 

立場の違い、特に上下関係を盾にする人、いますよね。

ハラスメントは言語道断。軽め?でも、マウンティングという行為もあります。

でも、仕事上、意見が対立していてもどうしても事を前に進めなければならない時、「上の立場」を利用することもあります。私も「上の立場」を利用したり、あるいは自分のそのポジションを利用したりしたこともあるし、当然、利用されたこともあります。

また、ハラスメントも、最初はよくわからないことがあります。特に受ける側は下の立場ですから、上の立場の人間が何を考えているのかなんて、そんなにすぐにはキャッチできません。

でも、頑張って、落ち着いて、どうか見極めてほしいと思います。

キーワードは、「その人の目的は、どこにあるのか?」

立場の強さを使って異性とどうかなりたいという人は最低すぎますが、注意した方がいい人はそれだけではありません。

立場を誇示したいだけの人、

自分がこの場を仕切っている感に酔いたいだけの人、

カリスマとか教祖になりたい人、

人をお世話(ケア)している体を装って、自分の生きがいにしている人、

自分の苦しさや辛さをアピールして、従えたい人……。

要は、他人を従えたい・依存させたい人、目の前の課題とか問題を解決しようというより、自分の「こうしたい」を優先している人に注意した方がいいのです。

 

顔面にわかりやすく表れている方だけではありません。満面の笑みを浮かべた、優しげな見た目の人でもこういう方はいますし、強烈なリーダーシップを発揮して頼りがいのあるように見える人にもこういう方はいます。

加えて、ややこしいことに、その人自身が心から「問題解決をしている!」「人のために働いている!」と思い込んでいることも少なくありません(本人がそう思って自分に酔っているだけなのですが……)。

つまるところ、簡単には、判断できないのです……。

そして、見極める自分の目が曇ってしまう場合も少なくありません……。

 

抱える問題を解決しなければならない、この苦しさからなんとか逃れたい。そう思うのは人間なら自然だし責められることではないのですが、それを丸々誰かに転嫁しようとした時、目が曇ってしまいます。

でも、冷静に「この人の目的は、どこにあるのか?」と見つめていれば、自ずと化けの皮がはがれてくる(=「ああ、そんな人だったんだ!」と気がつく)こともあります。

 

重い荷物を誰かに少し分け持ってもらうこと、まったく否定しません。疲れたら休めばいいし、時には逃げた方がいいこともたくさんあります。

でも、自分の問題が自然に解消されることはない、と思っていていいと思います。

自分の目がクリアになっていれば、「本物の支援」に気づけます。「本物の温かい心」に触れることができます。

自分の目を曇らせないこと、なかなか大変ですけどね。でも、失敗を繰り返し、多くの人を苦しめてきたからこそ、私はそう思っています。 

 

 

 

 

 

 

 

自分のペースが戻るまで

思いがけず新しいリズムが生活の中に入ってきて、心身ともにまだ慣れず落ち着きません。

noteで哲学者と対話を試みているのですが、原稿を書き送ったところ、急いで書きました?というさすがな指摘……。じっくりと深く考え、言葉と向き合う時間をきちんと確保できないうちは、いくら胸を借りているという立場であっても、それは失礼な態度だろうと反省しました。

一方で、じっくりと深く考え、それをアウトプットする時間が取れないと、私はこれほどまでにイラついてしまうのか、という新鮮な発見もありました。

20代の仕事のパートナーから以前、「たとえが悪いのですが、金子さんは(言いたいことが体に溜まってしまって)便秘状態にあると思います」と言われたこともあります。出すものをきちんと出せないと(すごい言い方ですが…汗)、頭の中が形になる前の言葉であふれかえってしまい、結構苦しいことになります。

しかし、それを形にするまでじっくり考える時間が、新しいリズムに慣れない今はまだちょっと取れずにいる……。

そこで、いくらブログとはいえ公開しているものに、あまり練られていない、生々しいことを書くつもりはありませんでしたが、新しいリズムに心身が慣れ、自分のいつものペースが戻ってくるまで、ここで少しリハビリさせていただきたいと思います。

 

……と書いて思い出したのは、夫が亡くなった後のこと。

私は編集・執筆や広告制作の仕事を通して、言葉を扱ってきていたのですが、夫の病気がわかってからは、そうやって自分の道具のように自在にできていた「自分の言葉」をうまく扱えなくなってしまいました。

「自分の言葉」がすべて失われてしまった……。

当時、私はずっとそう感じていました。最初は書けなくなり、それが進むと、うまくしゃべることもできなくなっていきました。

そうして夫が亡くなった後、私は夫から引き継ぎされたことを形にしなければ!と焦りましたが、それでも「自分の言葉」は失われたまま。うまく話せないし(話す前に力尽きてしまう……という方が正確かもしれません)、書くことさえもままならない。

そんな時、リハビリに使わせていただいたのが、Facebookでした。たしか「友達だけに公開しているこのFacebookで、リハビリさせてください」と書いた記憶もあります。

また同じことをするのか、とまるで成長しない自分にげんなりしますが、私の場合、新しい生活リズムが始まると、心身のバランスが乱れ、それを整えるために、ちょっとだけ人の目があるところで何かを書く……というのが1つの回復のためのルーティンなのかもしれません(……と、言い訳しますが 笑)。

 

書きたいことは頭の中にあふれかえっているのです。

新型コロナウイルスが少し落ち着いた?というか、変わってしまった生活に私たちが慣れてきた?今こそ、「人生会議」をしてほしいのです。

しかし、それには死のことをはっきり書かなければなりません。

また、そのような文脈で「人生会議」のことを書くことについても、自分の気持ちの持って行き先を見つけておかなければなりません(「そのような文脈で」と書かれても、どんな?と思う方も多いと思います。わかる人にしかわからない書き方になってしまいますが、「事前指示を目的とした状況で」人生会議を始めてほしいという意味です)

そのことを書くには、私はまだ準備ができていない……と思います。

いろいろなことを、ここにメモのように書いていくことで、ペースを戻し、まずは書ける心身に戻していくことから始めたいと思います。

ということで、本日はこの辺りで。。