金子稚子の「とんぼとかめ」日記

『ACP(アドバンス・ケア・プランニング)』『人生会議』を中心に、死や死別について考えることを記しています。

在宅医を責める前に……

こんな記事が目に入りました。

dot.asahi.com

夫も父も在宅医療を受けながら自宅で亡くなったので、取材に応じたご家族の気持ちはよくわかります。

自宅で過ごしたいという本人の希望を叶えたい。でも、「何かあったらどうしよう」「もしもの時に、どうしたらいいのか」……その不安は、最後の最後まで続きました。

そんなとき、「24時間365日対応」を掲げるクリニックの存在は、どれほどの安心感を与えてくれたでしょうか。看護師さんは、家族の不安にも丁寧に対応してくれました。今でもとても感謝しています。

 

でも、はっきり言いましょう。在宅医療は「入院」とは違います。

ナースコール(在宅医療の場合は電話)1つで、看護師さんやお医者さんが駆けつける、というものではありません。

 

入院は、その人の食事、排泄、睡眠など生活すべてを管理下に置かなければならないから実施されます。

手術したばかりで容態が安定していないとか、継続的に投薬し容態の変化を見守らなければならないとか、人との接触を制限してウイルス感染しないようするとか。

 

つまり、医学的に整備された環境の下で、患者であるその人を管理する(管理する必要がある)ものが入院なのです。

だから、退院が許可(提案とか要請とかでも)された時点で、コール1つで医療の専門家が駆けつけなければならない容態ではない、と私たちは理解していなければならないのです。

それが急な発熱であっても、腹痛であっても、です。

ちなみに書きますが、発熱や腹痛などその他考えられる不調への対応については、本来ならば医師や看護師から指示されているか、不安を伝えて事前に話し合っておくことが大切です(それを前提として、電話などで指示を仰げる、あるいは自分たちだけで対応できるような関係が医療チームとできているといいでしょう)。

 

「特に大都市圏では在宅医は過剰に増えつつありますが、在宅にかける熱意が低い医師もいます」(太田事務局長)

だから、太田先生のこのコメントは、多くの在宅の先生方がいかに熱意にあふれているかを裏付けていると思いました。

それは、腹痛や発熱といった不調への対応というより、その不調から来る本人や家族への不安に対応している、と言い換えられると思うからです。

当時はここまで冷静に客観的に捉えることができませんでしたが、今、改めて、患者の不安のために深夜も駆けつけるなんて、その熱意に頭が下がります。人として、心から尊敬します。

 

お医者さんや看護師さんたちは、自分の役割を深く理解しています。

何もすることがなくても(治療法がない場合もそうですね)、自分たちの存在が、本人や家族に安心感を与えることもあるとよくわかっている。

だから、白衣を着ることにこだわりを持つ先生もいます(ちなみに夫がお世話になった先生は、看護師さんも含めて、当時は私服でいることを大切に思っていました。クリニックに行っても、誰が看護師さんかわからなかったほどです 笑。それは、なるべく患者と対等でいたいというお考えからですが、お医者さんにもさまざまな考え方や信念がありますね)

 

またまたはっきり言いましょう。

私たちは、在宅医を責める前に、その電話は本当に「駆けつけてもらわなければならないのか」と、まず状況を把握できなければならないのです。

それは、ひょっとしたら自分の「不安」から来るものではないか、とも。

 

なぜこんなに厳しいことを書くかというと、在宅医療に「24時間365日対応」を絶対としてそれを押しつけてしまうと、もっと酷い状況になるからです。

高齢者がこれからもどんどん増えていきます。

「入院しなければならない人」ではなく、家や施設で療養する人が増えていくでしょう。

家や施設を「病院」にしてしまっては、医療従事者の数が足りなくなってしまいます。専門家の絶対的な不足が想定よりももっと早い時期に来てしまい、通常提供されるべき医療サービスの質さえ悪化してしまいかねません。

 

私たちに必要なのは、お医者さんや看護師さんとの「きちんとしたコミュニケーション」です。

自分の不安を正確に伝え、その際の対応も話し合っておくこと。

何でも「なんとかしてもらえる」となってしまっていてはだめです。「自分がやれることは何か」を、事前に知っておくことが必要なのです。

 

また、お医者さんや看護師さんたちでも、尋ねられなければわからないことがあります。

そのやりとりを通して、私たちのこともより理解してもらえ、ここが大切なポイントですが、私たち自身も関わって下さるお医者さんや看護師さんたちのことを理解できるようになります。

普段はまったくやりとりせずに、聞かれたことにもきちんと応えることもなく、自分が必要になったからと、救急車を呼ぶように電話をしているのでは、在宅医療の本当の良さを享受することができないと言ってもいいでしょう。

 

もう一度言います。

在宅医療は、入院とは違います。

家に、日常生活に、医療が入ってくるのです。

つまり、お医者さんたちとも「人間同士の付き合い」ができることが目標です。

 

「いい在宅医を選ぶためには、事前の情報が重要だと思います」(男性)

「いい在宅医」とは誰か?

その答えは、自分が持っているということも忘れてはなりません。

 

つまるところ、「この人と付き合いたいかどうか」で、決めてもいいかもしれませんね。

第一印象がよくても、後からあらら?と思ったり、付き合ううちにユニークな人間性に惹かれたり。

その時こそ、自分の「人を見る力」が本当に試される時なのかもしれません。

技術の使い方には気をつけて

すっかり出遅れましたが、こんなことが話題になっていたのですね。

 

www.moguravr.com

亡くなった娘とVRで再会……。

ちょっと似た内容の話を某所から伺ったこともあり、この流れは加速するだろうなと思いました。

 

なぜなら、メディアにとって、この内容はコンテンツとしておいしいと感じるだろうから。

絶対に「激しい感情の発露」があり、だから「涙」があって、「物語」もある。映像としてもインパクトがあるでしょう。

視聴者も観たいという人が少なくない数いるだろうことが見込める。

 

また、VRであろうがなんであろうが、今は亡き大切な人に再会したいという遺族は多いでしょう。

“会う”ことで、今抱える悲しみや苦しみが癒やされる人もいるかもしれない。

 

でも……、生理的にイヤな感じを正直、受けます。

 

亡くなった人とは、1対1の関係だと言い続けています。

とても個人的なもので、プライバシーが守られなければならないものだと思います。言うなれば、亡き人と対した時は、隠しようがない“素の自分”“裸の自分”が表れてしまう。

というか、そんなときは、どうか我慢しないでほしい、自分自身にウソをつかないでほしい、思いっきりやってOK!と、遺族に対していつも思っていますし、伝えてもいます。

泣き叫ぶのはもちろん、怒っても、笑っても、文句を言ったっていい。

当然ですが、そうした感情を、他人がとやかく言うのも筋違いです(夫を亡くした妻はこうあるべき、とか、子を亡くした親はこうあるべき、という決めつけもなしです。ちなみに、こうした決めつけに苦しめられている遺族は少なくありません)。

 

このニュースにイヤな感じを覚えたのは、それが「見世物」になっているからなんだと気づきました。

 

人間の「激しい感情」や「素のその人」、しかも大切な人と死別した悲しみや苦しみを抱える人のことが、コンテンツとして“消費”されているような感じ。

必要な人に届けばいいという情報提供ではなく、「泣きたい」とか「感動したい」という赤の他人である第三者の欲望に応えようとしている気配。

そんなものに、生理的にNO!を突きつけたくなりました。

つまり、この企画において、VRという技術が「演出」に使われているから……。

 

激しい悲しみを癒やすために、こうした技術が使われることも今後増えてくるのかもしれません。グリーフケアの1つとして、エビデンスが重ねられていくこともあるかもしれません。

でも、どうかプライバシーは守られてほしい。

遺族が安心して気持ちを表せることができるような環境で、(使われるのなら、または希望する人がいるのなら)使ってほしい。

 

技術の進歩は止めることなどできないし、また、止める必要もないと私は思います。

でも、「使い方」にはどうか慎重であってほしい。特に命に関わること、人の生死に関わることにおいては……。

 

そんな風に思いました。

生理的にNO…、生物として「これはイヤだ!」と思う感覚も大事だと改めて思います。

立春が過ぎ、新しい暦が始まりました。

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東風解凍(はるかぜこおりとく)

立春が過ぎ、新しい暦が始まりました。厚い氷もいつかは解ける日が来ると信じて、私たちはいつも変わらず役目を果たしてまいります。

本年も何卒よろしくお願いいたします。

 

夫と死別してから、私は年賀状を失礼させていただくようになりました。

大切な人と死別したばかりの方、重い病を患う方、そのご家族、死ぬほど生きるのが辛い方……。そういう方々の中には、年末年始の世の中がなんとなく華やぐ時にちょっと厳しい気持ちになる人もいること、自分が体験してよく知っているからです。

 

夫を亡くしたばかりのクリスマスイブ、そして元旦に、いつもとまったく変わらない様子で変わらない連絡をしてくださった方々がいました。クリスマスにはクリスチャンの方、元旦にはご実家がお寺という方々です。

温かな気持ちに触れ、ほっとしたことを覚えています。

そんな経験から、そんなときだからこそ“いつもと変わらない一日”を意識し、「おめでとうございます」は控えるようになりました。

 

……が、時間の経過を確認する大切さも、死別経験者として理解しているつもりです。ずっと変わらないと思っていた悲しさも、消えることはないけれど変化していく……。その変化を感じることは、時に自分に力を与えてくれることもあります。

だから、1年という節目を意識することもとても大切だと思っています。

 

そんなわけで、私にとっての「新しい年のはじまり」は、立春です。

数日過ぎてしまいましたが(汗)、今年もよろしくお願いいたします。

 

あ、ちなみに「東風解凍」とは、七十二候の第一候です。