金子稚子の「とんぼとかめ」日記

『ACP(アドバンス・ケア・プランニング)』『人生会議』を中心に、死や死別について考えることを記しています。

一線を越えた記事

この記事を読み、クラクラしました。というか、吐き気がした。

headlines.yahoo.co.jp

私は50過ぎの女だし性格的なものもあって、男性の(特に同世代やそれより上の世代の)こうした昭和的な感覚にいちいち目くじら立てたりはしません。状況によっては、これまでもうまく使ってきたし、今も使っている……というか、はいはい、とそのまま受け止めていることもままあります。

でも……、今回の新型コロナウイルスで起こる経済的危機に際して、特に若い女性が陥るだろうことを思うと、この発言はない

芸人さんの言うことに、いちいち真正面から反応するなんて無粋という考え方があることもわかっています。心の中でいくらでも思っていて構わないし、またラジオで話すのもそれきりであるのならばまだ許せます。↑に書いたように、そうした感覚をうまく使ってきた部分が自分の中にもあると思うから。

でも、これを記事にするのは、ないと思う、やっぱり。残ってしまうし、拡散される可能性があるという意味で(実際拡散されているし)、一線を越えています。

 

新型コロナウイルスに限らず、理不尽なことで、突然自分の未来が真っ暗になり、生活がままならなくなってしまったことがある人も、それなりにいると思います。

私自身も、グリコ・森永事件の影響で進学ができなくなったり、うつ病で働けなくなったりなど、「どんな手段を使ってもお金を稼がなければならない」というところまで追い詰められたこともあります。

当時の自分を振り返れば、若いが故に、「どんな手段を使っても」の部分のハードルがかなり低かった。グリコ・森永事件の影響で事業が回らなくなり、自殺を考え始めていた父にさえ、(生活コストが高いし、お前の性格では何をするかわかるから、と)東京行きを当時は反対されたほどでしたし。

 

短期間でお金を稼がないと苦しいですから。

 

手っ取り早いのですよ。「若さ」が価値になることは、普段はあまり若さを意識していない人でも、危機の時には容易にわかるはずです。むしろびっくりするかもしれません。こんな私でも価値があるの?などと。

だから、「若い」というだけでお金になるのならば、自分さえしっかりしていれば、どうってことないって若い女性が思ってしまうのもよくわかります。ともかくも今日、食べなければならないし、家賃を払わなければならないから。

 

でもね、風俗ではありませんが経験した私から言わせてもらえれば、将来、それは自分の心の傷になります。大きさや深さは人それぞれですが、また、その意味も人それぞれですが、私自身は自分が「(お金に)(男性に)負けたんだ」という事実に本当に傷つきました。

「女性」や「若さ」という、ある意味自分自身とは関係ないものの方に価値を見いだされたことで、自分がないがしろにされているように感じて傷ついた、ということなのかもしれません。自分には何もないんだ、とも。このことは、理不尽なできごとが起こり、お金がなくなって、人から差別され、未来がまったく見えなくなっていた私には、かなりキツいことでした。

だから、当時は帰宅すると涙が止まりませんでしたね。うまく言葉にはできなかったけれど……。

 

もちろん今は、その経験は自分の糧になっているし、私が人を判断する時の1つの基準にもなっているので、無駄ではなかったしプラスにもなっていると思います(人を性別や年齢、肩書き、学歴で見る人はそこら中にいますね)。さまざまな出会いがあり、自分の成長にもつながりました。本当に、その経験があったからこそ、今の自分があるとも言えます。

でも……、できることなら、大なり小なり傷つくが故に、経験しないでほしいと思います。10代や20代、30代も前半までなら、自分の子どもと言ってもいいような世代だから、子どものいない私が言うのもおかしな話ですが、親になったような気持ちでそう願ってしまいます。

 

だけど……。

新型コロナウイルスによる経済への大ダメージで、おそらく「しなければならない」という状況に追い込まれてしまう人も、少なからず出てくるでしょう。

この商いで私は身を立てる!と戦略的に始める人ならば、それはまったく違うものになりますが、追い込まれて、どうしようもなくなって、「しなければならない」となった人には、そこからの経験は厳しいものになる可能性が高いと思います。

また、いみじくも岡村隆史さんが指摘しているように、業界に入らざるを得なくなる人の範囲がかなり広がる可能性も高い。

もちろん、この話は、職業について云々することではありません。

選ばざるを得ない状況に陥ってしまって業界に入ってくる人の存在に、どうかせめてもの配慮をしてほしいと願うものです。

 

だから、岡村隆史さんの発言が本当に残念でした。

そして、記事にしたメディアの見識を疑います。

断定的に書いてしまいますが、少なくない数の男性の本音でしょう、彼の発言は。しかし、この状況下では記事にしてはいけない発言でした。まさか英訳されて世界中を駆け巡るとは思いませんが、日本人男性の精神性が疑われるに等しいものだと思います。

またそれを許容してきた私のような女性の存在もまた、非難されてしかるべきだと、今回改めて思いました。野放しにしてきたから、こんなことが許されてしまった……。

「点」の情報が形づくるものを受け取る

デジタルネイティブ」という言葉を知り、へーと思ったのはいつの頃だったでしょうか。それよりもっと前、インターネット(というかまだメールのやりとりでしたが)が仕事場にも入り始めた90年代終わりから2000年代初頭の頃、アラサーの私に20歳上の先輩が言った言葉が忘れられません。

これから情報は、(私たちの仕事である)雑誌や本のような「線や面」で伝えるものではなく、「点」が集まったものになる。 

あれから約20年、さまざまなネットサービスが登場し、そして今もどんどん出てきていますが、当時、彼女が言っていたことはこういうことかと、改めて実感しています。

「線や面」と「点」の違いとは、どういうことを指すかわかるでしょうか?

あることを伝えようとした時、そのことにまつわるさまざまなこと(なぜ伝えようとするのかという理由もそうですし、さまざまな立場のさまざまなものの見方もあります。また時間の経過や未来予測などもあるでしょう)も合わせて、「こういうことだ」と伝えるのが「線や面」です。「線や面」で、情報を伝えようとする人間が形づくったもの(だから、ある程度の文章量がある)を丸々受け取ることになります。

しかし「点」は、「こういうことだ」ということのみです。「こういうことがあった」「こう思った」「こうである」という断片的な情報を受け取り、それが自分の中に集積して形作られるものを受け取る、というイメージ。形づくるのは、情報を伝える側ではなく、受け取る側がすることになります。

加えて、新聞も含めた紙媒体と比較したら、時間的制限や映像パワーのあるテレビは「点」に近いメディアですが、これら旧メディアにネットメディアが加わった今は、当時となんか比べられないくらいに、情報のスピードは増し、そして大量になりました。しかも、情報が非常に多様で多彩。そして「個人的な言葉」もあふれています。よく言われることですが、発信された情報が「公的なもの」なのか「私的なもの」なのかよくわからず、混在もしています。というか、受け取る側が特に意識することもなく、どんどん発信され、どんどん流されていきます。

だから、たとえ匿名のツイートであっても情報を伝える側の責任が、ここ20年ほどの間にずっと軽くなったように私には感じられるほどです(そのせいか、ネット発信になじめていないということもありますが、特に紙媒体で仕事をしてきた同世代はネットでの発信に非常に慎重な人が多いように思います。私自身がそうですが、紙媒体の感覚で肩に力が入りすぎているのかもしれません…)。受け取る側も、すぐに消えていく情報をそこまで気にする必要はないし、大量の情報を処理するにはいちいち深く理解する必要もなくなっています。

 

しかし今、「外出を控えてほしい」というメッセージがメディアを通して出されていますが、それはなぜなのか?ということが、多くの人に届いていないことを痛感します。

そして、科学者による「なぜなのかという理由」が発信されていますが、それらが複雑で難しく、且つ大量であることもあって(つまり「線と面」で形作られたものなので)、なかなか多くの人に届かないのではないかとも思います。猛スピード&大量の情報を浴び続けていることで、「情報を気にする」「情報を深く理解する」ことを知らない、あるいは忘れた人たちが、情報が持つ意味の重さをキャッチできていないのかも、と(もちろんよく理解し、行動を変えている人も大勢いることはわかっています)

 

今日は、こんなニュースがありました。

www3.nhk.or.jp

このニュースに触れて、どれくらいの人ががん専門病院が手術を80%縮小することによる影響を理解できているのか心配です。「看護師が感染するなんて、なんて不注意なんだ!」などという的外れの反応を示す人がいないことを心から祈ります。

ちなみに私は、こんな風にツイートしました。

今日、21時のNHK「ニュースウォッチ9」では、がん患者団体の声を取り上げていました。そして患者団体代表も、「医療者を責めるつもりはない」ということを強調しました。伝えたいのは「私たちの行動を変えることだ」とも。

「家から出ない」というたったこれだけで、多くの人の命を救うことができる。断片的な情報を受け取るだけで自分の中に形作られるものに気づけないと、その意味はわからないかもしれません。でも、そういうことなのです。

「点」の情報ではなく、形づくられたものを受け取ってほしい。

 

新型コロナウイルスのせいで、人生会議についてなかなか書けません(汗)。

でも、人生に関すること、命に関することについて話し合おうという時、今のように「断片的な情報を受け取るだけ」に慣れてしまうと、かなり大変だと思いますよ、とは言っておきたいです。闘病も命に関わる医療やケアの選択も、「点」の情報だけではすることなどできません。自分の命を前にしたら、そんなに簡単には話を受け流すことができなくなるからです。というか、受け流しても「なかったこと」にはできないですよね。今の新型コロナウイルスと同じです。

 

現実は映画「シン・ゴジラ」よりキツい

Twitterに流れてきたこの中の1つの言葉に、思わず笑ってしまいました。

 

「キレ散らかして」って、この混乱の中、なかなかうまいこと言うなあと思いました。テレビやSNSも含めて興奮して声が大きくなっていたり、責め合ったりしている状態から、「ま〜た、キレ散らかして(笑)」って、笑いながら距離を置けるから。

SNSなどを読んでいると止まらなくなってきます。もちろんいろいろ言いたいこともあるし、酷い!と共感したいこともある。でも、そういう言葉にまみれていると、自分自身も興奮してきて、どんどん言葉が荒くなっていってしまいます。もちろん、政治家や行政に「伝えなければならない声」というものもあります。

が、その中にどっぷり入り込んでしまう危険性も同時に意識していないと、見えるもの・見なければならないものも、そのうち見えなくなってしまいます。

独裁者は混乱に乗じてやってくる……でしたっけ?人は簡単に「正義」に騙されてしまうので。

この記事に、以下のような文章があります。

ヒトラーは、『真実でなくても、自分だけを一方的に褒め、責任は敵に負わせること』が宣伝の主眼だと述べています。(後略)」

「敵」は、なにも政府や政治家や国際組織やウイルスに限りません。天使の顔をした悪魔のような人に遭遇した経験のある人もきっといることと思います。「正義」や「正解」を求めすぎるのは危険だと、常に意識していたいものです。

 

そんなことを思いながら、今の政府の混乱ぶりに何か既視感があるなあと思っていました。

そして、ああ、そうだったと、映画「シン・ゴジラ」を観直しました。

shin-godzilla.jp

封切り当時も複数回劇場に観に行きましたが、今、改めて観るといろいろと身に沁みます。

Twitterでも、政府の混乱ぶりや対策チームの凄まじい奮闘ぶりがそっくりだと言っている人をたくさん見かけました。

それだけでなく、ゴジラが未知のものであり、形態を変化させていくところもウイルスとかぶります。

 

しかしながら、映画と現実では大きく違うことが2つあります。

1つは、ゴジラは目に見えるけれど、ウイルスは見えないこと。

このことは、かなり大きな違いです。映画にも出てきた、避難命令が出ているにも関わらず荷物をまとめていて逃げ遅れる人など、行政からの声をなかなか理解できない人は今、現実にもいますが、ゴジラはわかりやすく見えている。恐怖が形になっています

しかし、ウイルスは見えません。感染者数など数字は日々報道されていますが、数字を見て具体的に恐怖をイメージできる人はそんなに多くないのでしょう。なぜなら、日常生活が強制的に激変しないから。ゴジラが襲ってきた、などであれば、死ぬかもしれない!と思う人も大勢いるのでしょうが、ウイルスがもたらす恐怖については、海外の様子以外は具体的には伝わってきません(不可能を承知で書きますが、今、医療崩壊寸前まで来ているという都内の急性期病院の中の様子を映像で伝えれば違うのかなと思いますが。一方で、正常性バイアスも心配されますが)

だから、あれだけ朝から晩まで報道されていても、家にいてくださいと要請されていても、家族ぐるみで買い物に出かけたり、車で出かけたりできてしまっているのだと思います。

 

そして2つめは、(わかりやすく)力を合わせたり励まし合ったりできないこと。

映画では、首都圏に住む人が地方に疎開したり、地下や避難所で肩を寄せ合って励まし合ったりするような、大勢の人が密集するシーンが描かれていますが、新型コロナウイルスの対策では、これができません。

感染を防ぐには、要は「ともかく他の人と接触しないこと」に尽きます。散歩であろうが、買い物であろうが、ともかくそれぞれが人との接触回数を減らしていくことが今、必要です。散歩に行く時間帯を見直したり、買い物の回数も減らしたりと、そんな工夫が求められています(でも買いだめはいけません)。

しかし、人との接触が少なくなると、これはこれでかなりストレスだとわかりました。夫を亡くした後、ある意味、仕事も人間関係もリセットすることになった私自身、人とまったく会わないという時間がそれなりにありましたが、そんな私でさえ…。自分が望みさえすれば人と会うことができる、という疑ったこともないくらいに当然のことができなくなってはじめて、「人と直接会う」ということの意味と価値を再確認した思いでいます。

私たちはこれまで、自然災害を含めてさまざまな困難に遭遇してきました。でも、そのたびごとに、力を合わせて乗り越えてきました。会って話したり、握手したり、背中をさすったり、苦しい人に手を差し伸べて、あるいは差し伸べてもらって助け合ってもきました。

しかし、新型コロナウイルスは、そうしたリアルな接触にNOを突きつけています。

ネット上でも、励まし合ったりするやりとりも少なからずあります。しかし、どれほどの言葉を尽くしても、どれほどの行為をみんなで共有しても、リアルなコミュニケーションでなければ届かないことがある、とも改めて思います。もちろん、新型コロナウイルスに向き合うこれからの時間で、新しい何かが生まれてくるとも思っていますが。

 

映画「シン・ゴジラ」の中で、個人的に印象に残ったセリフがあります。通称「巨災対」に文部科学省から加わった高橋一生さん演じる安田が淡々と解説するひと言です。

ヤツ(ゴジラ)は、ただ移動しているだけです。なので、志向も特定できません。

新型コロナウイルスも同じなんでしょう。生物としてのなんらかの法則に則って遺伝子を次にバトンしようとしているだけ。だから、遺伝子の変異で強毒化する可能性だってあります(強毒化を防ぐためにも感染スピードをできる限り遅くする必要があり、だからこそ今、外出を避け人との接触を減らしてくれと要請されているわけですね)

また、「シン・ゴジラ」のラストも印象的です。すっぱりとわかりやすい結末ではなく、経済復興という厳しい道のりだけが明示され、むしろ物語が唐突に中断されたかのようなラスト……。

あまりにも現在(&これから?)の状況を予言しているかのような内容に、改めて思うことがたくさんありました。

が、でも「シン・ゴジラ」と同じく、今の私たちにもわかりやすい結末は訪れない、ということ、それから、「巨災対」のようなヒーローたちが新型コロナウイルスをやっつけてくれるわけではない、ということだけはわかっていた方がいいかもしれません。

可視化が難しい脅威を前に、私たちがすべきことは何か、ということを改めて考えつつ、私がすべきこと・できることは何か、とも改めて考えています。