金子稚子の「とんぼとかめ」日記

『ACP(アドバンス・ケア・プランニング)』『人生会議』を中心に、死や死別について考えることを記しています。

一線を越えたタイトル

昨日に引き続き、体調が悪くなった記事について書きます。

岡村隆史さんの発言については、昨日のブログに書きました。実は、岡村さんの発言については、以下の記事で知った次第です。

news.yahoo.co.jp

正直なところ、岡村さんの発言については吐き気を覚えましたが、上記の記事については体調が悪くなってしまったため、とてもではないですが昨日の段階では、この件については書くことができなかったのです。

そういう意味では、岡村さんの発言以上に、私自身は心身にダメージを負ってしまいました。自分の弱いところを突かれた、と言ってもいいのかもしれません。

 

私がやられてしまったのは、まず、タイトルです。

岡村隆史「お金を稼がないと苦しい女性が風俗にくることは楽しみ」異常な発言で撤回すべきではないか

 「お金を稼がないと苦しい女性が風俗にくることは楽しみ」……と、打ち直すだけでも目が回ってきます。それくらいのインパクトが、このタイトルにはある。

 

そして続く記事には、冒頭に次のような一文があります。

閲覧注意なので気分が悪くなった方は読まなくていい。

はい、つまり書き手は、こういう文言に体調不良になる人がいることを認識しています。

 

言い換えれば、書き手やこれを取り上げたメディアサイドの人間は、このタイトル(内容)が、人の心を大きく揺さぶることがわかった上で、それについて書いている、ということです。

 

記事を読み進めていきました。

私は絶対にこういう発言は許してはいけないと思っている。

このような発言を面白おかしく取り上げてきたメディアも猛省すべきである。

同感です。特に記事にしたメディアについては、いつもはネタにしていてもこの時期には記事にするべきではなかったと思います。そして、男性のこういう発言を許してきた私のような女性についても、反省したいと昨日のブログに書きました。

 

しかし……、読んでいくと、書き手の主張は他にあることがわかってきました。

誤解してほしくないのは、生活困窮者支援をするなかで、今回の緊急時だから女性が「性の商品化」をされているのではなく、日常的にそうなっている社会構造があるということだ。日常的に問題視されてこなかったものである。

そういうことなんですね……と力が抜けました。

 

このような女性の性を購入する人々の問題を「見える化」し、改めて社会福祉や生活保障をしていく社会への転換を図るべきであろう。

止むに止まれず、10代の女性、学生、シングルマザーなど生活に苦しむ人たちが性を売らなくても生活が可能な社会への転換こそ必要である。

 記事の締めくくりに書かれていたことが、書き手の主張であることがはっきりしました。要は「(弱者が生きていきやすい)社会への転換を図るべき」というのが言いたいことなんですね。

 

こういう文脈で主張が語られる時、私はどうしても書き手の利己的な姿勢を感じてしまいます。

岡村隆史さんの発言はもちろんこと、性の商品化の対象になっている女性も、それを支援する団体も、すべてが自分の主張を正当化する道具にすぎない、と受け取れるからです。

たしかに、その主張は正しい。

私も、ウーマンリブ世代が恩師ですし、学生時代には女性としての意識のなさをかなり厳しく教育されてきたと思います。個人的な経験もさまざまあるし、その主張に反対するつもりはありません。むしろ、賛同します。

だけど、自分自身が道具にされるのは、受け入れがたい。というか、耐えられない。私個人のことを言っているのではないのはよくわかっています。でも、尊厳が傷つけられた、と感じてしまうのです。

他人の道具にされることにおいては、性の商品であることと、何ら変わらないからです。

 

しかも、最悪なのは、自分の主張を拡散させるために、人の心を大きく揺さぶるための言葉をわざわざタイトルに付けていることです。

岡村さんは「楽しみ」とは一言も発言していないようなのに(ラジオ番組は聴いていませんが、書き手が記事中に参照した記事にも「楽しみ」とは書かれていません)……。

 

ネット上は、書き手が記事中に参照した記事ではなく、冒頭に示した記事が広く拡散しました。そして、岡村さんを非難する言葉があふれています。

 

でもね……、よく考えてほしいのです。本当に岡村さんの発言だけが問題なのか、と。

問題を可視化し、多くの人に理解してもらうという正義のためには何をしてもいい、手段は選ばない、ということを本当に許してしまってもいいのでしょうか。

 

私も死をテーマにしており、こういう問題に直面してきたので、特に敏感に反応しているのかもしれません。

私たちは、こういう姿勢を「自分に矢印」と呼んでいます。「弱っている人を支える」と「自分の主張を広める」こととのバランスを取るのは本当に難しい。ちょっとでも気を抜くと、「自分は正しい」という確認や「自分を認めてほしい」という承認欲求が頭をもたげてきて、そちらの方が優先されてしまうのが、人の支援に関わる人間にはつきものだと思っています。

人間ですから、間違いをおかすこともあるでしょう。でも、そのために仲間がいます。

原稿の段階で、ストップがかかったり、意見が出なかったことが残念です。

また、万が一でもPV数を稼ぐことの方を優先して、このタイトルを付けていたとしたら……。そちらの方が質が悪いと言わざるを得ません。女性は、岡村さん以上にそちらの方に怒るべきだと思います。

 

一線を越えた記事

この記事を読み、クラクラしました。というか、吐き気がした。

headlines.yahoo.co.jp

私は50過ぎの女だし性格的なものもあって、男性の(特に同世代やそれより上の世代の)こうした昭和的な感覚にいちいち目くじら立てたりはしません。状況によっては、これまでもうまく使ってきたし、今も使っている……というか、はいはい、とそのまま受け止めていることもままあります。

でも……、今回の新型コロナウイルスで起こる経済的危機に際して、特に若い女性が陥るだろうことを思うと、この発言はない

芸人さんの言うことに、いちいち真正面から反応するなんて無粋という考え方があることもわかっています。心の中でいくらでも思っていて構わないし、またラジオで話すのもそれきりであるのならばまだ許せます。↑に書いたように、そうした感覚をうまく使ってきた部分が自分の中にもあると思うから。

でも、これを記事にするのは、ないと思う、やっぱり。残ってしまうし、拡散される可能性があるという意味で(実際拡散されているし)、一線を越えています。

 

新型コロナウイルスに限らず、理不尽なことで、突然自分の未来が真っ暗になり、生活がままならなくなってしまったことがある人も、それなりにいると思います。

私自身も、グリコ・森永事件の影響で進学ができなくなったり、うつ病で働けなくなったりなど、「どんな手段を使ってもお金を稼がなければならない」というところまで追い詰められたこともあります。

当時の自分を振り返れば、若いが故に、「どんな手段を使っても」の部分のハードルがかなり低かった。グリコ・森永事件の影響で事業が回らなくなり、自殺を考え始めていた父にさえ、(生活コストが高いし、お前の性格では何をするかわかるから、と)東京行きを当時は反対されたほどでしたし。

 

短期間でお金を稼がないと苦しいですから。

 

手っ取り早いのですよ。「若さ」が価値になることは、普段はあまり若さを意識していない人でも、危機の時には容易にわかるはずです。むしろびっくりするかもしれません。こんな私でも価値があるの?などと。

だから、「若い」というだけでお金になるのならば、自分さえしっかりしていれば、どうってことないって若い女性が思ってしまうのもよくわかります。ともかくも今日、食べなければならないし、家賃を払わなければならないから。

 

でもね、風俗ではありませんが経験した私から言わせてもらえれば、将来、それは自分の心の傷になります。大きさや深さは人それぞれですが、また、その意味も人それぞれですが、私自身は自分が「(お金に)(男性に)負けたんだ」という事実に本当に傷つきました。

「女性」や「若さ」という、ある意味自分自身とは関係ないものの方に価値を見いだされたことで、自分がないがしろにされているように感じて傷ついた、ということなのかもしれません。自分には何もないんだ、とも。このことは、理不尽なできごとが起こり、お金がなくなって、人から差別され、未来がまったく見えなくなっていた私には、かなりキツいことでした。

だから、当時は帰宅すると涙が止まりませんでしたね。うまく言葉にはできなかったけれど……。

 

もちろん今は、その経験は自分の糧になっているし、私が人を判断する時の1つの基準にもなっているので、無駄ではなかったしプラスにもなっていると思います(人を性別や年齢、肩書き、学歴で見る人はそこら中にいますね)。さまざまな出会いがあり、自分の成長にもつながりました。本当に、その経験があったからこそ、今の自分があるとも言えます。

でも……、できることなら、大なり小なり傷つくが故に、経験しないでほしいと思います。10代や20代、30代も前半までなら、自分の子どもと言ってもいいような世代だから、子どものいない私が言うのもおかしな話ですが、親になったような気持ちでそう願ってしまいます。

 

だけど……。

新型コロナウイルスによる経済への大ダメージで、おそらく「しなければならない」という状況に追い込まれてしまう人も、少なからず出てくるでしょう。

この商いで私は身を立てる!と戦略的に始める人ならば、それはまったく違うものになりますが、追い込まれて、どうしようもなくなって、「しなければならない」となった人には、そこからの経験は厳しいものになる可能性が高いと思います。

また、いみじくも岡村隆史さんが指摘しているように、業界に入らざるを得なくなる人の範囲がかなり広がる可能性も高い。

もちろん、この話は、職業について云々することではありません。

選ばざるを得ない状況に陥ってしまって業界に入ってくる人の存在に、どうかせめてもの配慮をしてほしいと願うものです。

 

だから、岡村隆史さんの発言が本当に残念でした。

そして、記事にしたメディアの見識を疑います。

断定的に書いてしまいますが、少なくない数の男性の本音でしょう、彼の発言は。しかし、この状況下では記事にしてはいけない発言でした。まさか英訳されて世界中を駆け巡るとは思いませんが、日本人男性の精神性が疑われるに等しいものだと思います。

またそれを許容してきた私のような女性の存在もまた、非難されてしかるべきだと、今回改めて思いました。野放しにしてきたから、こんなことが許されてしまった……。

「点」の情報が形づくるものを受け取る

デジタルネイティブ」という言葉を知り、へーと思ったのはいつの頃だったでしょうか。それよりもっと前、インターネット(というかまだメールのやりとりでしたが)が仕事場にも入り始めた90年代終わりから2000年代初頭の頃、アラサーの私に20歳上の先輩が言った言葉が忘れられません。

これから情報は、(私たちの仕事である)雑誌や本のような「線や面」で伝えるものではなく、「点」が集まったものになる。 

あれから約20年、さまざまなネットサービスが登場し、そして今もどんどん出てきていますが、当時、彼女が言っていたことはこういうことかと、改めて実感しています。

「線や面」と「点」の違いとは、どういうことを指すかわかるでしょうか?

あることを伝えようとした時、そのことにまつわるさまざまなこと(なぜ伝えようとするのかという理由もそうですし、さまざまな立場のさまざまなものの見方もあります。また時間の経過や未来予測などもあるでしょう)も合わせて、「こういうことだ」と伝えるのが「線や面」です。「線や面」で、情報を伝えようとする人間が形づくったもの(だから、ある程度の文章量がある)を丸々受け取ることになります。

しかし「点」は、「こういうことだ」ということのみです。「こういうことがあった」「こう思った」「こうである」という断片的な情報を受け取り、それが自分の中に集積して形作られるものを受け取る、というイメージ。形づくるのは、情報を伝える側ではなく、受け取る側がすることになります。

加えて、新聞も含めた紙媒体と比較したら、時間的制限や映像パワーのあるテレビは「点」に近いメディアですが、これら旧メディアにネットメディアが加わった今は、当時となんか比べられないくらいに、情報のスピードは増し、そして大量になりました。しかも、情報が非常に多様で多彩。そして「個人的な言葉」もあふれています。よく言われることですが、発信された情報が「公的なもの」なのか「私的なもの」なのかよくわからず、混在もしています。というか、受け取る側が特に意識することもなく、どんどん発信され、どんどん流されていきます。

だから、たとえ匿名のツイートであっても情報を伝える側の責任が、ここ20年ほどの間にずっと軽くなったように私には感じられるほどです(そのせいか、ネット発信になじめていないということもありますが、特に紙媒体で仕事をしてきた同世代はネットでの発信に非常に慎重な人が多いように思います。私自身がそうですが、紙媒体の感覚で肩に力が入りすぎているのかもしれません…)。受け取る側も、すぐに消えていく情報をそこまで気にする必要はないし、大量の情報を処理するにはいちいち深く理解する必要もなくなっています。

 

しかし今、「外出を控えてほしい」というメッセージがメディアを通して出されていますが、それはなぜなのか?ということが、多くの人に届いていないことを痛感します。

そして、科学者による「なぜなのかという理由」が発信されていますが、それらが複雑で難しく、且つ大量であることもあって(つまり「線と面」で形作られたものなので)、なかなか多くの人に届かないのではないかとも思います。猛スピード&大量の情報を浴び続けていることで、「情報を気にする」「情報を深く理解する」ことを知らない、あるいは忘れた人たちが、情報が持つ意味の重さをキャッチできていないのかも、と(もちろんよく理解し、行動を変えている人も大勢いることはわかっています)

 

今日は、こんなニュースがありました。

www3.nhk.or.jp

このニュースに触れて、どれくらいの人ががん専門病院が手術を80%縮小することによる影響を理解できているのか心配です。「看護師が感染するなんて、なんて不注意なんだ!」などという的外れの反応を示す人がいないことを心から祈ります。

ちなみに私は、こんな風にツイートしました。

今日、21時のNHK「ニュースウォッチ9」では、がん患者団体の声を取り上げていました。そして患者団体代表も、「医療者を責めるつもりはない」ということを強調しました。伝えたいのは「私たちの行動を変えることだ」とも。

「家から出ない」というたったこれだけで、多くの人の命を救うことができる。断片的な情報を受け取るだけで自分の中に形作られるものに気づけないと、その意味はわからないかもしれません。でも、そういうことなのです。

「点」の情報ではなく、形づくられたものを受け取ってほしい。

 

新型コロナウイルスのせいで、人生会議についてなかなか書けません(汗)。

でも、人生に関すること、命に関することについて話し合おうという時、今のように「断片的な情報を受け取るだけ」に慣れてしまうと、かなり大変だと思いますよ、とは言っておきたいです。闘病も命に関わる医療やケアの選択も、「点」の情報だけではすることなどできません。自分の命を前にしたら、そんなに簡単には話を受け流すことができなくなるからです。というか、受け流しても「なかったこと」にはできないですよね。今の新型コロナウイルスと同じです。