化けの皮がはがれていく……
よいタイミングで書くことができなかったので、もうこの話題は流れてしまったと思っていますが……。
幻冬舎の編集者が女性ライターに……という問題。週刊文春が記事にし、それがネットで拡散し……というところまでは追っていましたが、その後もまた、やれやれという報道があり、掲載写真に思わずのけぞり……となっていました。
現在もTwitterで怒っているプロの物書きの方々もいて、その怒りももっともだと思っています。
私のTwitterのTLには、主に男性、しかもそれなりの年齢でキャリアのあるプロの物書きの方々の怒りがたびたび流れてきていました。しっかり追えていなかったので、怒りの根源をつかむことはできていませんが、でも、(ほぼ同世代なので)ちょっとわかるかな……。
私自身は、若い頃から出版業界で働かせてもらっていましたが、サッカーという特殊?な分野だったせいかい、この女性ライターのような思いは一度もしたことがありません。
Jリーグが始まる前からのことですので、サッカーよりは野球ファンが多く、したがってメディアの扱いもとても小さかった……。だからか、サッカー報道に関わるマスコミはサッカー大好き!というようなほぼ男性ばかり。当時、私が知る限りでも、英字新聞を含めても3〜4人くらいしか女性記者はおらず、カメラマンも私の後輩だけでした(私のような編集者もほぼ数人)。
なので、チームのクラブハウスに取材に行くと、選手から「ハイヒールで芝生に入ってくんなよっ!」と大声で怒鳴られることはあっても(そんなことをするはずもなく、スニーカーを履いた足を上げて「大丈夫ですよっ!」と言い返してましたが)、女性扱い?されることはほぼなかったと記憶しています。
また、そんな男だらけの仕事場でも、セクハラまがいのことをされたことは皆無。ともかくも締め切りに追われ、男も女もなく、仕事に熱中していました。
……と、そんなことが「異常なこと」だと知ったのは、サッカーの仕事から一時離れた頃のことだったでしょうか。30歳は過ぎていたかな。たまたま仕事で一緒になった、私より若い女性ライターから、「友達のライターが出版社の社員編集者にレイプされた」という話を聞いたのです。
はい?と、今から思えば、まるでわかっていない反応だったと思います。でも正直、「そんなことが起こるの?仕事なのに?」と思っていました。笑えるほどに、私は何も知らない人間でした。
でも、話を聞いているうちに、私の環境の方が変わっているのだとわかりました。話してくれた若手女性ライターは、涙ながらに「こんなに親身になって話を聞いてもらったのは初めてだ」と言っていました。そう、「そんなことはよくあること」と、それくらい受け流すように言われるのです。
恥ずかしながら、レイプはともあれ、オジサマの軽口(今ならセクハラ認定できますが)くらいは受け流さないと、あなたは職場でやっていけなくなる、と若い女性にアドバイスしたこともあります。私が今、若い方々が今もなお女性蔑視に苦しめられている様を見て、自分がどれほどだめな対応をしてきたかと反省しているのも、その経験があるからです(まあ、ついでにちょっと書かせてもらうと、年齢&性差別のダブルである“オバサン差別”もありますがね……。これは男女&年齢関係なく、なさる方はなさいますけど。特に若い女性に対しては、あなたの未来なんですよ〜と思って見守っていますが…。あ、もちろん“オジサン差別”もありますね)。
立場の違い、特に上下関係を盾にする人、いますよね。
ハラスメントは言語道断。軽め?でも、マウンティングという行為もあります。
でも、仕事上、意見が対立していてもどうしても事を前に進めなければならない時、「上の立場」を利用することもあります。私も「上の立場」を利用したり、あるいは自分のそのポジションを利用したりしたこともあるし、当然、利用されたこともあります。
また、ハラスメントも、最初はよくわからないことがあります。特に受ける側は下の立場ですから、上の立場の人間が何を考えているのかなんて、そんなにすぐにはキャッチできません。
でも、頑張って、落ち着いて、どうか見極めてほしいと思います。
キーワードは、「その人の目的は、どこにあるのか?」。
立場の強さを使って異性とどうかなりたいという人は最低すぎますが、注意した方がいい人はそれだけではありません。
立場を誇示したいだけの人、
自分がこの場を仕切っている感に酔いたいだけの人、
カリスマとか教祖になりたい人、
人をお世話(ケア)している体を装って、自分の生きがいにしている人、
自分の苦しさや辛さをアピールして、従えたい人……。
要は、他人を従えたい・依存させたい人、目の前の課題とか問題を解決しようというより、自分の「こうしたい」を優先している人に注意した方がいいのです。
顔面にわかりやすく表れている方だけではありません。満面の笑みを浮かべた、優しげな見た目の人でもこういう方はいますし、強烈なリーダーシップを発揮して頼りがいのあるように見える人にもこういう方はいます。
加えて、ややこしいことに、その人自身が心から「問題解決をしている!」「人のために働いている!」と思い込んでいることも少なくありません(本人がそう思って自分に酔っているだけなのですが……)。
つまるところ、簡単には、判断できないのです……。
そして、見極める自分の目が曇ってしまう場合も少なくありません……。
抱える問題を解決しなければならない、この苦しさからなんとか逃れたい。そう思うのは人間なら自然だし責められることではないのですが、それを丸々誰かに転嫁しようとした時、目が曇ってしまいます。
でも、冷静に「この人の目的は、どこにあるのか?」と見つめていれば、自ずと化けの皮がはがれてくる(=「ああ、そんな人だったんだ!」と気がつく)こともあります。
重い荷物を誰かに少し分け持ってもらうこと、まったく否定しません。疲れたら休めばいいし、時には逃げた方がいいこともたくさんあります。
でも、自分の問題が自然に解消されることはない、と思っていていいと思います。
自分の目がクリアになっていれば、「本物の支援」に気づけます。「本物の温かい心」に触れることができます。
自分の目を曇らせないこと、なかなか大変ですけどね。でも、失敗を繰り返し、多くの人を苦しめてきたからこそ、私はそう思っています。
自分のペースが戻るまで
思いがけず新しいリズムが生活の中に入ってきて、心身ともにまだ慣れず落ち着きません。
noteで哲学者と対話を試みているのですが、原稿を書き送ったところ、急いで書きました?というさすがな指摘……。じっくりと深く考え、言葉と向き合う時間をきちんと確保できないうちは、いくら胸を借りているという立場であっても、それは失礼な態度だろうと反省しました。
一方で、じっくりと深く考え、それをアウトプットする時間が取れないと、私はこれほどまでにイラついてしまうのか、という新鮮な発見もありました。
20代の仕事のパートナーから以前、「たとえが悪いのですが、金子さんは(言いたいことが体に溜まってしまって)便秘状態にあると思います」と言われたこともあります。出すものをきちんと出せないと(すごい言い方ですが…汗)、頭の中が形になる前の言葉であふれかえってしまい、結構苦しいことになります。
しかし、それを形にするまでじっくり考える時間が、新しいリズムに慣れない今はまだちょっと取れずにいる……。
そこで、いくらブログとはいえ公開しているものに、あまり練られていない、生々しいことを書くつもりはありませんでしたが、新しいリズムに心身が慣れ、自分のいつものペースが戻ってくるまで、ここで少しリハビリさせていただきたいと思います。
……と書いて思い出したのは、夫が亡くなった後のこと。
私は編集・執筆や広告制作の仕事を通して、言葉を扱ってきていたのですが、夫の病気がわかってからは、そうやって自分の道具のように自在にできていた「自分の言葉」をうまく扱えなくなってしまいました。
「自分の言葉」がすべて失われてしまった……。
当時、私はずっとそう感じていました。最初は書けなくなり、それが進むと、うまくしゃべることもできなくなっていきました。
そうして夫が亡くなった後、私は夫から引き継ぎされたことを形にしなければ!と焦りましたが、それでも「自分の言葉」は失われたまま。うまく話せないし(話す前に力尽きてしまう……という方が正確かもしれません)、書くことさえもままならない。
そんな時、リハビリに使わせていただいたのが、Facebookでした。たしか「友達だけに公開しているこのFacebookで、リハビリさせてください」と書いた記憶もあります。
また同じことをするのか、とまるで成長しない自分にげんなりしますが、私の場合、新しい生活リズムが始まると、心身のバランスが乱れ、それを整えるために、ちょっとだけ人の目があるところで何かを書く……というのが1つの回復のためのルーティンなのかもしれません(……と、言い訳しますが 笑)。
書きたいことは頭の中にあふれかえっているのです。
新型コロナウイルスが少し落ち着いた?というか、変わってしまった生活に私たちが慣れてきた?今こそ、「人生会議」をしてほしいのです。
しかし、それには死のことをはっきり書かなければなりません。
また、そのような文脈で「人生会議」のことを書くことについても、自分の気持ちの持って行き先を見つけておかなければなりません(「そのような文脈で」と書かれても、どんな?と思う方も多いと思います。わかる人にしかわからない書き方になってしまいますが、「事前指示を目的とした状況で」人生会議を始めてほしいという意味です)。
そのことを書くには、私はまだ準備ができていない……と思います。
いろいろなことを、ここにメモのように書いていくことで、ペースを戻し、まずは書ける心身に戻していくことから始めたいと思います。
ということで、本日はこの辺りで。。
遺族の物語を通して感じてほしいこと
自粛生活も長くなってくると、そのリズムに体が慣れていきますね。
先日は、精神疾患を患う人の支援をされている方のお話を伺う機会がありました。精神疾患を抱える方も、というより、患っているからこそ私たち以上に、生活リズムがこれまでと異なることには大変なストレスがあります。支援者側も、とても用心深く丁寧に見守っているのだなあとお話から感じられましたが、患者さんも本人のペースで、この生活に順応していっている様子がうかがえて、なんというか……人間が本来持つベーシックな力、その力強さに改めて感じ入った次第です。
私たちは、もう少しだけ、自分たちが生まれながらに持っている力を信じてもいいのかもしれません。
とはいえ、経済への大きな影響は、個人の力だけではどうにもなりません。
パンフレットに寄稿させていただいた映画が、公開後まもなくからの新型コロナウイルスの影響により上映できなくなり、とても気になっていました。
この映画です。
「巡礼」というタイトルから連想されると思いますが、遺族の物語です。
新型コロナウイルスでほぼパニックのようになってしまっている社会の空気の中では、死を連想させる話は伝わりにくいし、むしろ忌避感を強めるだけだろうと思って、お知らせも控えていました。
寄稿した記事の一部をご紹介します(配給会社さんの許可を得ています)。
「巡礼の約束」は、大切な人と死に別れた遺族の物語でもある。しかし、遺族の物語と聞いて、同じ遺族同士、悲しみを共有し、巡礼の旅を続けていく中で癒やされ、家族の絆は再び結び直されるだろう。そんな、こちらの浅はかな予想は簡単に裏切られる。日本人が好みそうな、そんな甘ったるい感動物語とは一線を画した作品なのだ。
なぜなら、悲しみは共有できないから。
幸運にも、そして何より医療従事者や介護職といった最前線で働く人の献身的な仕事によって、日本では新型コロナウイルスで亡くなる人をこれ以上増やさないようにとなんとか抑えています。
しかし、今この瞬間にも、新型コロナウイルスだけではなく、さまざまな病気で、あるいはケガで、生死の境にいる人がいます。そのご家族もいるでしょう。
そして、亡くなる人もいる……。
がんだけに限っても、1日に1,000人以上の方が亡くなっていることをご存じですか(2018年にがんで死亡した人は373,584人)。
誰もがいつかは必ず迎える未来(=死または死別)なのですが、多くの人が無かったことのようにして暮らしています。そうでなければ、精神を保って生きられない、という人もいるでしょう(怖いから?)。
死は、「自分さえしっかりしていれば、こうやって“正しく”生きていれば、人生をうまく生きていける。失敗なく進んでいける」ということに、いとも簡単にNOを突きつけます。
“正しく生きていれば大丈夫”なんて、そんなことは幻想だよ、と。
どんな生き方をしようが、自覚的に生きていようが、死だけは自分では選べないんだよ、と。
これまで積み重ねてきたこと(それは人間関係だったり仕事の実績だったり財産だったり、あるいは「徳」ということもあるかもしれません)が、あまりにもあっさりゼロリセットされてしまう……それが「死」だと、思っている人もいるかもしれません(「自分の死」を思うと、それは真実だなと思いますが……)。
しかし、死は、そんなに単純なことなのかな、と個人的には思っています。「無かったことにしないと生きていけない」くらいに、怖いものなのだろうか、と。
そう思えるようになったのは、大切な人との死別の経験を得てからです。
死は、普通に私たちの近くにあり、そしてとても自然で、(語弊のある言い方かもしれませんが、実感としてあるのでそのまま書きますが)「豊かなもの」です。
もちろん、苦しさや厳しさもある。でも、それだけではない。だから「豊か」だと思うのです。
「巡礼の約束」は、チベットを舞台にした映画です。タイトル通り、聖地への巡礼、しかも五体投地というもっとも丁寧な礼拝方法で向かうロードムービーでもあります。
長くなってしまうので語句の説明は省きますが、ACP(=人生会議)の意味と価値が深く伝わってくる映画でもあり、また地域との関わり、信仰の意味、チベット版在宅医療?も描かれます。
ぜひ観ていただきたいのですが、新型コロナウイルスにより、映画館での上映は来年となっています(岩波ホールは、2021年3月13日(土)~4月2日(金)の
そこでと言ってはなんですが、「仮設の映画館」という取り組みをご紹介します。
詳細は、↑のサイトをご覧いただきたいですが、この取り組みは「映画とミニシアター映画館と独立系配給会社への観客の応援の力をお借りしたい」という、映画作品を提供する側からの真摯なお願いでもあります。
もちろん映画だけではありませんが、消えてしまったら二度と戻らないもの、消してはいけないものが世の中にはあると思います。関心のある方には、ぜひご検討いただけたら嬉しいです。
なお、パンフレットも購入可能です。こちらをご確認ください。
以下にも転載させていただきます。
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《『巡礼の約束』『タレンタイム~優しい歌』パンフレット販売のお知らせ》
仮設映画館で公開中の『巡礼の約束』『タレンタイム~優しい歌』のパンフレットを通販で取り扱っております。
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【商品名】【必要部数】【送付先住所(郵便番号/住所/氏名)】をご連絡ください。
- 『巡礼の約束』パンフレット:800円(+送料)
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※『タレンタイム』サントラは在庫切れで現在は取り扱っておりません。
※支払方法は「銀行振込」のみとなります。詳細はメールにてご連絡致します。また、新型コロナウィルスの影響により、商品の発送に時間がかかる場合がございます。
※その他の弊社作品のパンフレットを通販希望の方も info@moviola.jp にお問い合わせください。
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「自粛疲れ」「気の緩み」などと言われていますが、未知のウイルスに対峙するにしても、少しずつ多くの人の心に余裕が出てきているのかな、と思います。
そろそろ死について、人生会議について、書いていきたいと思っています(本ブログでもちょっと書いていますが…汗)。