金子稚子の「とんぼとかめ」日記

『ACP(アドバンス・ケア・プランニング)』『人生会議』を中心に、死や死別について考えることを記しています。

『人生会議』は、誰が行うもの?

『人生会議』とは、ACP(アドバンス・ケア・プランニング)のことです。

 

これだけを読んで、ああ、なるほどね!と言える人はそんなにいないかと(汗)。

そして、この人生会議について説明するのは、今回のこの記事だけでは無理です。

というか、このブログ全体が人生会議についてのあれこれを書いていこうとするくらいのものなので(笑)。

 

ACPについて、人生会議については、厚生労働省このサイトをまず読んでいただけたらと思います。

そして、これだけを読んで、「わかった!」となった人に対しては、ごめんなさい、以下を問いかけさせてください。

 

あなたの人生は、

本当に、それほどわかりやすく、シンプルなのでしょうか?

 

この問いの意味についても、ブログを通して(頑張って書きます!)さまざまに感じていただけたらと思います。

 

★★

 

さて、『人生会議』とは、ACP(アドバンス・ケア・プランニング)の愛称です。

 

昨年の11月30日に公募により決定したと、厚生労働省が発表しました。

ちなみに、11月30日は、“いい看取り・看取られ”という語呂合わせから「人生会議の日」として、人生の最終段階における医療・ケアについて考える日にしようとしています。

 

「人生会議」と聞いて、どんなことを連想しますか?

 

なんだか物々しい。

うん、必要だよね。

何をテーマに会議するのか…、話が大きくなりそう。

一度は真剣に取り組んでみたい。

何かのゲーム?

 

いろいろな反応があるかと思います。

 

しかし私のところには、なかなか厳しい声が聞こえてきます。

 

「人生会議」なんて、そんな悠長なこと、やってられないよ!

 

はい、おっしゃる通りです。

私自身も、その“やってられない”現実を経験していますので、その気持ちは痛いほどわかります。

 

こういう声は、人生の最終段階にある患者やその家族に接している医療従事者の方、そして死に直面する当事者や家族からのものが多いように感じています。

 

なぜなのでしょうか。

 

私は、その名称から来る印象に理由があるのではないかと思っています。

 

★★

 

「人生」と「会議」。

 

死を意識した時、人はそんなに簡単には「人生そのもの」を振り返ることができない……のではないでしょうか。

これは、夫の闘病中に彼と語り合っていた時から感じていることですが、このことについては、また改めて書いてみたいと思います。

 

ここでは、「会議」について考えてみましょう。

 

「会議」と聞いて、みなさんはどんな風に感じますか?

単純に、何か特定の議題があり、何かを決めたりするもの、ですよね。

そこにいるメンバーは、議題の関係者だったりしますが、「その人」が議題になることはありません。

 

というか、「その人」が議題になってしまったら、それは言葉を選ばずに言えば「つるし上げ」とか「糾弾」とか、そんなイメージになりませんか?

 

少なくても、「その人」を褒め称えるために会議を行う、ということは……普通しませんよね?

 

そうなんです。

死に直面した本人や家族にとっては、「人生会議」という言葉の響きがとても遠いのです。

もっとはっきり言ってしまいましょう……冷たいし、突き放されたものに感じられるのです。

 

とてもじゃないですが、自分自身や大切な人に関係する何かを話し合うものだとは思えません。

 

また、「会議」という言葉から来るのんびりした感じが、命の終わりを見据えた時期には、あまりにも耐えられません。

だから「そんな悠長なこと、やってられないよ!」になるのです。

 

しかも会議の議題は、自分自身や大切な人の命に関わることです。

 

議長が誰なのか知らんが、その「人生会議」とやらで、何を決めろというのか!という怒りにも似た気持ちを抱くのは、当然のことと思いませんか?

 

★★

 

死に直面しているその時。

その時に、平然と「人生会議を行おう」などと声をかけられる人は、本人から遠い位置にいる人と言っていいでしょう。

 

本人のことすら考えていない、と言ってもいいと思います。

そんな人は、会議を行うことだけが目的化しています。

 

しかし、その時、一人だけ「人生会議を行おう」と口火を切ることができる人がいます。

 

そう、本人です。

 

自分が議長になり、自分の人生を議題にし、自分のことについて関係者と話し合うのです。

 

ところが、その場合であっても、人生会議は難しいことが多いでしょう。

なぜなら、本人はその気満々であっても、周囲が(特に家族が)付いてこられないこともしばしばだからです。その人の死を前提にした話し合いなので。

 

だから「人生会議」は、死に近いその時に行うのが大変なのです。

会議の出席メンバーの気持ちをそろえるところから始めなければなりません。

さらにいえば、出席するかどうか、そこからの“交渉”が必要な家族もいるでしょう。

 

「人生会議をしよう」と言って、家族全員が同じテーブルについて話し合えるのは、家族が健康で、仲が良い証拠ではないでしょうか。

 

家族で人生会議ができる=幸せ、と言えてしまうのは、私が夫を亡くしているからかもしれませんが……。