「終末期」が「人生の最終段階」に変わった意味
2018年3月、厚生労働省により、あるガイドラインが約10年ぶりに改定されました。
その名も「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」。
ちなみに、厚生労働省のサイトでもこのようにいろいろ公表されていますので、関心のある方は……。
人生の最終段階、それは“命の限りが見えてきた段階”のことを指します。
この段階は、「終末期」と言われることもたびたびです。
たとえば「終末期医療」とか。
終末期だと、いかにもこの世の終わりのような雰囲気で怖い、というような人も多いでしょう。
ネガティブな意味での「もう終わり」感がとてもある。
でも、人の命の最後を、そんな風な「もう終わり」感でいっぱいにしていいのだろうか。
特に高齢者の場合、80年90年と生きてきたその最後が、終末期という言葉のイメージ通りでいいのだろうか。もちろん若くても、いや、若いからこそ「もう終わり」感の強い終末期という言葉は、とてもじゃないけど受け入れられない……。
そんな声も影響したのでしょうか。厚生労働省は2015年春に、終末期を「人生の最終段階」としよう、と打ち出しました。
「もう死んでしまうのだから」と、まるでそれまでの人生すべてがゼロになってしまうかのようなものではなく、「人生の最終段階」という言葉には、その人のそれまでの人生に敬意を払おう・払いたいという意思すら感じられます。
そしてこの言い換えは、高齢化率が約28%であり、すぐそこまで迫っている多死の時代に直面する今の日本においては、とても重要な示唆に満ちていると思います。
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多死、それは読んで字のごとく「多くの死」、つまり「多くの人が死ぬ」ことです。
どんなに健康で長生きの人でも、いつかは必ず死ぬ。高齢化率が高い=高齢者が多い日本は、「多くの人が死ぬ」時代にまもなく突入することになるのです(ちなみに、そのピークは2038〜2040年頃とも言われています)。
平成30年度版高齢者白書(全体版)にも、このような死亡数の将来推計が出ています。
赤の他人の死に対しては、例えば世間を賑わす大きな事件・事故・災害で亡くなられた人のニュースに直面しても、人はそこまで激しく、そして長く、延々と混乱し動揺し続けることはできません。
仕事や目の前の困り事や嬉しい事、自分の日常生活の方が優先されるのが普通でしょう。もちろんそのことは、誰かに責められるものでもありません。
しかし、自分にとって大切な人、身近な人が死んだらどうでしょうか。
配偶者、親、兄弟姉妹、祖父母、子ども、親友、恩師、恋人……。
そんな人が死んだら、日常生活を送ることができないほどの状態に陥ってしまう人も少なくありません。
それ自体は、グリーフ(死別後悲嘆)といって、人間として、いたって自然で、当たり前の反応なのですが(身体に苦痛がある場合、あるいはそれにより本人または周囲が困った状態に陥った場合は医療機関を受診し、適切な治療を受けて下さい)。
でも、「身近な人が死ぬとどうなるか」、もっと言えば「身近な人の死が近づいた時、人はどうなるのか・どうするのか」「死の前にはどんな問題があるのか」ということが、あまり知られていないのが、多死時代を迎えるにあたっては問題なのです。
死がタブー視され、いわば“共感されやすい(感動を呼びやすい)”物語のみが伝搬し、実際のところはどうなのか、という現実が共有されてこなかったことも、ここへ来て、私たちの前に、重い課題としてより明確に立ち現れはじめているとも言えます。
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そこで、「終末期」が「人生の最終段階」に変わった意味を考えてみます。
「終末期」と聞いた時、冒頭に書いたようにネガティブな意味での「もう終わり」感を抱く人も少なくないでしょう。
でもそれは、そんなイメージだからということもあるでしょうが、どこか他人事、というか「命の終わり」は強くイメージできても、人の気配を感じない・感じたくない……ことはありませんか?
しかし「人生の最終段階」はどうでしょうか。
「命の終わり」のイメージは弱まりますが、人の気配は感じられます。
そして、こういう視点で意識し直すと、その「人」とは、誰か自分に関わる特定の人をイメージできませんか? あるいは自分自身とか?
多くの人が死ぬ多死時代を控えて、私たちが意識を変えなければならないのは、この点です。
私たちが直面するのは、誰なのかイメージできない「多くの死」ではなく、現実には「私の死」であり「私の大切な人の死」であるということ。
厳しいですが、長寿国として世界のトップランナーである日本は、このことを“ないこと”にはできないのです。