「自分で決めろ」の冷たさと苦しさ
本来なら「自ら命を断つことの意味について1」の続きを書くところですが、このたびの台風報道で、ACPに関連してちょっと思うことがあったので、先にこちらを書くことにします。
はじめに……。
台風19号で被害に遭われた方、そのご関係者のみなさまに、心よりお見舞い申し上げます。
一刻も早い復旧を祈るばかりですが、どうか心身の健康のために、休息も十分にとっていただけたらと思います。
また、亡くなられた方のご遺族さま、心中をお察しいたします。今も、大変酷いニュースが入ってきて言葉を失っています。こんなことしかできませんが、故人さまのご冥福を心よりお祈りしております…。
さて、大きな被害を残し、さらに警戒の続く台風19号のことです。
上陸の数日前から注意喚起がさまざまなメディアで大量に行われ、またその日においても、刻々と情報が伝えられ、現場からネットなどでも多くの情報提供&共有がありました。
それはそれで大変素晴らしく、また私自身も、育った環境で子ども時分から地震対策については体に染みついたものがあり、それなりに対策もしているつもりだったのですが、「台風」「洪水」については全然わかっていなかった!と、改めて知ることができました。
しかしながら……。
情報発信をして下さる方に感謝しつつも、そしてこれまでにない危機が迫っていることも理解しているのだけれど、そのうちに、これは……と思わざるを得ない言葉が気になっていきました。
「命を守る行動をとってください」
今回は、気象庁が2013年より運用を開始した「特別警報」が広範囲に発令されました。
そしてそれは、私たちがそう何度も経験することのないほどの「重大な災害が起こる可能性が非常に高まっている」ので、「ただちに身を守るために最善を尽くす」ようにと促すものなのですが……。
その言葉があまりに大量に流されすぎた、その言葉に触れすぎてしまった……のかもしれません。
あるいは、いわゆる正常性バイアスがかかっていたのかもしれません。
「怖くて怖くて……」
「気が滅入ってしまって、ネットで映画を観て気分転換が必要だった」
「この非常時に眠くて眠くて仕方がない」
私の周囲には、そんな人も少なくありませんでした。
★★
正常性バイアスがどういうものなのかは、専門家の情報にアクセスしてください。ウィキペディアにもこんな風に書かれています。
私がここで注目したのは、ツイッター上のこんな言葉でした。
一日中、朝からずっと「命を守る行動」を促され続けていると
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) October 12, 2019
「おまえの命を守るのはお前自身の自己責任なんだからな。オレの責任じゃないんだからな。そこんところは覚悟しとけよ。オレは注意をうながしたんだからな。おぼえとけよ」と念を押されている気分になることですわ。
はい、これって、まさに医療現場でありがちなACP(アドバンス・ケア・プランニング)の空気感です。
特別警報がそうであるように、誰もその人がつらい目に遭えばいい、苦しんでしまえなどとは思っていません。
その人のために、よかれと思って、「人生の最終段階における医療・ケアをどうしたらいいか、話し合いましょう。あなたの話を聞かせてください。あなたはどうしたいですか?」と、促します。
しかし、こちらは自分の命がかかっています。
どうしたいかなんて、そんなに簡単には決められないし、第一、そんな時に何をどうしたいのかなんて、考えたこともない。
もちろん、私のような人間でも、その大変さを体験的によく知っていますから、「健康な時に一度は考えてみてください」「今だからできることですよ」などと主張しています。
たぶん、このブログでも何回も書くことになるでしょう。
でも、問題はそこではありません。
医療職などの専門家が入って行われるACPでは、記録が取られます。
それが「あなたはこのとき、こう言ったよね」という自己責任を負わされるかのようなプレッシャーにつながってしまうのです。
念のため、誤解がないように書きますが、記録は必要です。
自分自身の振り返りとしても、「ああ、あのときはこう言ったんだった」と知ることは悪いことではない。むしろ、そうした気持ちの変化の記録が、自分の“今”の気持ちをさらに深くキャッチする手助けをしてくれるでしょう。私は日記のようなブログのような使い方ならとても大事だと思います。
でも、「第三者による」「公的な空気感いっぱいの」記録は…………。
まして、現場ではその人のためによかれと思って一生懸命にACPに取り組んでいますので、その緊張感、集中力が、本人や家族にも伝わる……。
意見は変わっていいし変えていい。変わるのが当然と言われても、「うん、この前はこう言ってましたね」などと確認されてしまえば、「え、よかったのかな」とか「意見が変わっちゃ悪いのかよ」などという気持ちも沸いてしまうでしょう……。
★★
私自身は、結構ガリガリな本人意思尊重派で、しかも「自分で決める」と、その大切さを強く訴えている人間です。
それでも、周囲から「さあ、決めてくれ」「何をどうしたい?」と、あまりにも促されるのは、ちょっと違うなあと思います。
「命を守る行動をとってください」と、強く、何度も、繰り返し、言われ続けることと、それは同じだからです。
特別警報は仕方ありませんが、ACPではそれを決めるタイミングまで、相手に支配されているのです。
自分で決める、のではなく、自分で決めろ、というニュアンスが強い。
ACPは、自分の死を前にした時の医療やケアをどうするか決める時に行われる、繰り返しの話し合いです。
命に関わることの意思の決定は、周囲の「その人のために」「よかれと思って」の熱意が強すぎても、はっきり言ってそれはありがた迷惑にしかなりません。
熱意は、
「あのとき、私はあれほど決めてくれとお願いしたよね」
「あのとき、あなたはこう言ったよね」
という、他人事の冷たさに簡単に転じてしまうからです。
もっと言えば、私はここまでやったんだ、という証拠固めにさえ使われてしまうこともあるでしょう。
だから私は主張します。
(しつこく促される前に)「いきかたは、自分で決める」のが本当に大事と。
それがどれほど苦しいことかも、知っていますが、それでも……。
命のことを、決めろと促され続けるのは……。つらくありませんか?